音読

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書き手:プロフィール

第13週 桜流し / 宇多田ヒカル

 

 

今月初めに二人目の子供が生まれて、5日間産院に入院していたのですが、入院中、宇多田ヒカルの新しいアルバム『Fantôme』をずっと聴いていました。退院してからも繰り返しずっと聴いていて、もう何回聴いたかわかりません。

 

『Fantôme』を初めて聴いたとき、一曲目からなんだか知らないけど泣けてしまって、二曲目、三曲目と聴いていくうちに、どんどん目が洗われて目がよく見えるようになった感覚になりました。実際にちょっと視力が上がったかもしれない。「音楽が世界を変える」を最小単位でいうとこういうことなのかもなと思いました。ミクロに、でも確実に、世界を変えるアルバムです。

 

それで、このアルバムを聴いてから、わたしが宇多田ヒカルを好きな理由がわかった気がしました。

彼女は15歳でデビューして以来、こんなにもマクロなセンセーションを巻き起こし続けているのに、いつも「ミクロに、でも確実に」心を打つ作品を生み出しいる。わたしが彼女を好きなのは、その「虚ではなく実」な感じ、「信用できる」感じにあるのだと思いました。

そしてそのミクロをマクロにつなげられる人こそがプロフェッショナルであり、彼女はやっぱりプロの音楽家なんだな、とも思いました。

 

 

わたしは大学では文学部に所属していたのですが、作品を研究する際に、「作家の私生活を根拠に作品を解釈するやり方は三流である」ということを教わりました。つまり、作中の「私」や「僕」を作家本人だと思うなと。それは単なるゴシップにとどまる思考停止であり、作品自体を小さく見誤ってしまう研究の仕方であるということでした。

その小説が作品である以上、そこには作家の「作る意図」があるはずで、研究者は作家本人を論じるのではなく、その作家の「作る意図」を論じるべきである、とゼミの教授は言っていました。

逆に言えば、自分のことをただただ書き連ねただけの「作る意図」のない作品は、研究に値しないということです。

『Fantôme』を聴いて、そんなことを思い出しました。

 

彼女は2010年に「しばらくの間は派手な『アーティスト活動』を止めて、『人間活動』に専念しようと思います」とブログで発表して、その後活動を休止しています。それから、母親・藤圭子の自殺、イタリア人との結婚、出産などがあった6年を経たのちの『Fantôme』リリースです。その間に大震災もありました。

『Fantôme』を聴く前には、彼女がその間体験した喪失や出会いを持ち出して聴くのは安易だよな、と思っていたのですが、聴いたあとにはその考え自体がちっぽけに思えました。

たとえばこのアルバムには、「これはお母さんのことを歌っているんだろうな」と思える曲がいくつかあります。そして、そう思われることをちっとも恐れていない彼女の潔さがあります。その正直な潔さこそが「虚ではなく実」な感じ、「信用できる」感じなんだと思いました。

それは、彼女の個人的な体験や感情から生まれたものです。だけど、そこにはもちろん、「私」という小さな枠にとらわれない芸、人を魅了するプロの仕事、つまり「作る意図」があります。そのふたつがふんだんにあるからこそ、大勢の、ひとりひとりの心を確実にうつ作品なんだろうなと思います。

 

 

宇多田ヒカルがファンからの質問に答える「♯ヒカルパイセンに聞け」がすごくおもしろくて何度も読んでいるのですが、その中にこんなやりとりがありました。

 

「ヒカルパイセンにとって、芸術とは?何だと思いますか?」

 

「経験は人それぞれで、どんなにそっくりな体験をしたとしても二人の人間が同じ経験をすることはあり得ない。
けど俺が感じるどんな感情も、人類初めての感情なわけがない。それが疎外感や孤独だったとしても、沢山の先人が同じ気持ちを味わったはず。今だって意外に身近なところで誰かが同じことを感じてるかもしれない。きっと誰かがもう、その気持ちを詩にしてる。小説にしてる。踊りにしてる。絵にしてる。歌にしてる。
それが俺にとっての芸術。」

 

 

ひとりひとりの個人的な感情は、実は大きな根っこにつながっていて、自分という一過性のものは、実は普遍的なものである。

彼女が自分のお母さんのことを歌うことで、わたしの中の個人的な感情も、一緒に音楽として昇華される。

芸術作品に触れて感動する、というのは、それを感じるということなのかもしれないなと思いました。

 

 

『Fantôme』は、「桜流し」のこの歌詞で終わります。

 

「どんなに怖くたって目をそらさないよ

 すべての終わりに愛があるなら」

 

桜はすぐ散ってしまうけど、あとには大きな水の流れが残って、また新しく花が咲く。

これは、短い一生を懸命に生きているひとりひとりのための、人間賛歌なんだなと思います。

 

 

text:土門蘭

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