rei harakami / lust2013.9.24
お彼岸ということで、今日は母とお墓参りに行きました。
といっても私は割と頻繁にお墓に行くので、特に変わったこともなくいつも通りの日常ですが。
今住んでいるところは父の実家の近くなので、お墓のあるお寺も家の近くにあります。
だからキャンディの散歩がてらお墓に寄ったりすることも。
こんな足しげくお墓に通うようになったのは、3年前に祖父が病気で亡くなってからです。
母方の祖父は私が幼稚園の頃に亡くなっており、それ以来近しい身内の不幸は経験することなく育った私にとって3年前の出来事は本当に大きなものでした。
容態が急変したのが7月10日の明け方。
その日は京都大作戦の日で、私も参加予定でした。
しかも私が同行者の荷物やチケットを車に積んでいたという事態。
仕方ないと言えば仕方ないのですが、あの日は沢山の人に迷惑と心配をかけてしまったなあ。
あの時のチケットは、もぎられることの無いまま綺麗に保管してあります。
祖父は海軍を引退したのちずっと、高校数学の講師をしていました。
(なんと83歳まで現役!)
もちろん私も数学を教えて貰っていたので、私にとって祖父でありながら先生。
おじいちゃんとおばあちゃんは孫には甘いというのはよくある話です。
例外なく私も甘やかされていた(と思う)のですが、勉強の時間が始まるとそれが一変。
ものすごく厳しくて、怒られることもしばしば。
今から思うと私が祖父に怒られたのは、数学を教えて貰っている時間だけだったような気がします。
そんな祖父の好きなこと、それは海外旅行でした。
昔から1人で世界中を飛び回るのが趣味だったようで、その時の話をする時の祖父は本当に輝いていて少年の瞳のよう。
ついでに世界各国のタバコを集めるのが好きだったのですが、それは幼少期の私の積み木代わりでした。
今なら言える、大切なコレクションで遊んでしまってごめんなさい。
若い頃はもちろんデジタルカメラなんて無かった訳で、祖父の使うカメラはアナログのそれ。
だけど子供の私からしたらそれがすごくカッコいい機械のように思えて、「おじいちゃんすげー」と秘かに思っておりました。
亡くなる前に、生きていた証だと言って作ったもの、それは自前の写真集。
そこにはテレビや本でしか見たことのない世界が広がっています。
それだけでも感動なのに、その写真一枚いちまいに祖父の魂を感じることが出来るから写真ってすごい。
というより、写真を見るだけで祖父を感じることが出来るのは、私が心から祖父に懐いていたからなのでしょう。
今でも私の心の中にいる祖父は生き生きとしていて、「おじいちゃんならこういう時こう言うだろう」というのがすぐに思い描けます。
そして、そう思える人がいるというのは祖父が幸せに一生を終えられたという証拠だと思いますし、私も嬉しい。
いつか写真にある風景をこの目で見に行きたいなあ。
それが私のひそやかな夢です。
祖父はたまに私の夢に出てきては、私にお願い事をしてきます。
ある時は囲碁がしたい、ある時は日本酒が飲みたい。
そういう夢を見た次の日は、お墓に碁石を持って行ったり日本酒を水鉢に注いだりします。(本当はいけないんだろうけど)
次はなんだろう、そう考えるだけで笑みがこぼれます。
そしてそうやってまた、私の心の中のおじいちゃんは生き生きとしてくれるのです。