絵本についての個人的な考察2014.1.22
クリスマスも誕生日も、私がれんたろうに贈ったのは絵本だった。
平べったいから邪魔にならないし安価だし、
その割にすごく彼が喜ぶから、というのが理由。
れんたろうは絵本が好きで「えっふぉん」と言う。
「えっふぉん」を読んでくれと、毎日せがんでくる。
最近お気に入りなのは「14ひきのあさごはん」。
大学時代の友達が出産祝いにくれたものだ。
ねずみ家族のほんわか話だとあなどっていたら
画面いっぱいの緻密な描写に驚かされた。
ディテールが細かくて、飽きない。
私がれんたろうに初めて買ってやったのは「いいおかお」という絵本。
なんのことはない、いいお顔をしてたら犬やら猫やらが来て
そいつらもいいお顔をしてみんなでいいお顔してたら
しまいには母さんがビスケットくれた
というだけの話。
ぱらぱら読んでみて、
どこがおもしろいのかまったくわからんなー
と思いながらも、それを買った。
いいおかおをしている「ふうちゃん」が、れんたろうと少し似ていたからです。
彼女は風船のように丸い顔をしている。
れんたろうには何度もこの絵本を読んであげた。
最初は全然聞いてくれなかったけど、1歳を過ぎたあたりから
急に絵本に興味を覚え始めて
「ああおいしい、おいしい、おいしいはどーこ」
というフレーズにさしかかると、リズムに合わせて顔をゆらし
「どーこ」と一緒になって言うまでになった。
本を閉じ電気を消すと、れんたろうはしばし泣く。
「もっかいもっかい」「えっふぉん」と言う。
しばらくすると、寝る。
私は両親に読み聞かせをしてもらった覚えがないので、
ずっと自分の子供に絵本を読んでやるというのが夢だった。
その夢が叶って、今はかなり嬉しい気持ちだ。読み聞かせには充足感がある。
私の両親はほとんど本を読まない人たちなので、
「読んで」と言っても「読めない」と言われていた。
そしてそれはたぶん本当だ。
母は日本人でないのでしかたないとしても、
父のほうは昔からまったく勉強ができず、
文字を見ると頭が痛むと言う。
肉体労働者として10代中盤からずっと働いてきたために、
本を読むこと、ましてや声に出して読むなんてことを何十年もしてこなかった。
それをいきなり「朗読しろ」と言われても、
恥ずかしいだろうし難しいだろうと思う。
それなので幼い私は保育士さんに読んでもらっていた。
私は保育士さんの膝の上に乗って読んでもらいたがった。
友達が一緒に見せてもらおうとやってくると追い払う。
「ひとりっこだから蘭ちゃんは甘えん坊でわがままだ」と言われた。
私は絵本がおもしろいとか好きだとか思ったことは一度もない。
むしろ嫌いだった。
多分それは私が「私のためだけに読まれる」という経験がないからだと思う。
読み聞かせというのは一対一でするものであって、
一対多数にするものではないんじゃないだろうか。
絵本は文章、ストーリー、絵のすばらしさを子供が鑑賞するためのものではなく、
子供が大人に自分のためだけに読んでもらうことで
「自分が愛されている」という実感をするためだけの
ツールなんではないだろうか。
どの絵本を読んでもつまらないので、私は小学校に入ってすぐ児童文学に走った。
たとえば「小公女」とか「若草物語」とか「イワンのばか」とかだ。
どういうわけかファンタジーというか現実離れした設定が嫌いで
「星の王子様」や「銀河鉄道の夜」などは最後まで読めなかったのだが(今でもそう)、
それは好みの問題だろう。
私は自分と似たような境遇の貧乏な人たちの物語を読むのが好きな、
そしてそこから何かを学び取ってやろうと考えるような
きわめて実用主義な子供だったんだと思う。
元来ひとりっこで暇をもてあましていた私はそれらにのめりこんで本好きになり、
そのままどんどん大きくなって大学では日本文学を専攻するようになるんだけど、
そういう児童文学と絵本はまったく異なる。
児童文学はひとりで読み、世界を広げるもの。
絵本は大人に読んでもらい、愛情を確認するものだ。たぶん。
だから私は絵本についてまったくあかるくない。
れんたろうが生まれて初めて「ねないこだれだ」や「ぐりとぐら」を読んだ。
(読んだことはあるのだろうけど、まったく内容を覚えていなかった)
そんな私が、絵本を選ぶとき、やっぱり考えているのは
「れんたろうがこれを好むかどうか」だけで、
そこには愛情しかない。
絵本を読んでもらうとき、れんたろうも充足しきったような顔をしている。
僕は今愛されてるな~って顔しながら、甘えた様子で「もっかい!」と言う。
お前は今愛されてるんだよ~でなきゃ何十回も読まないよ~と思いながら、
面倒くさいけど最初からまた読んでやる。