音読

たぶん週刊ランラン子育て帖

どもんらんってどんな人?

2012年の1月、音読編集部のもとに赤ん坊が生まれました。名前はれんたろう。「にゃあ」というなき声がチャームポイントの男の子。新米ママ土門、今日も子育てがんばります。

その目線は誰のものなのか

IMG_4899

北海道の山中で男の子が行方不明になった事件で、男の子が無事発見された。

会社でも家でもこのニュースはよく話題にあがっていて、男の子が見つかったときには「よかったよかった」と盛り上がった。

この事件がこんなに注目を集めたのにはいろいろな要因があると思うけど、ひとつは「自分もやってしまうかも」と多くの人が思ったということがあるのでは、と思う。

 

「自分もやってしまうかもな」と、わたしも思った。

子供が全然言うこと聞かなくて、ものすごい腹がたったら、「ちょっと懲らしめよう」と思って置き去りにするかもしれない。絶対にしない、とは言い切れない。

わたしの周りでも、そう言う人が多かった。

あと、「自分もそういうのされた」という人もいた。

わたしも忘れてるだけで、あるような気がする。

 

「しつけ」とは便利な言葉だ。

「しつけ」をしたほうも、されたほうも、それで納得してしまう。

行為を正当化できるから、したほうは自己嫌悪に陥らないですむし、されたほうは理不尽に対する怒りや恨みを感じないですむ。

 

 

最近、れんたろうに怒ることが多くなった。

ごはんを遊びながら食べるなとか、早く服を着替えろとか。

足で椅子を動かすなとか、お菓子のゴミをそのままにするなとか。

 

ガミガミ言うとれんたろうが悲しい顔をするし、わたしも醜くなる気がしていやなので、「怒ること」にほとほとうんざりしてきた。

 

で、ふと思った。

「これ別に、怒って言う必要なくない?」ということに。

冷静に、笑って、感じよく、「ごはんはしっかり食べようね」とか「服はてきぱき着替えようね」とか、言えばすむ話じゃない?同じことでも、言い方を変えるだけでハッピーにもアンハッピーにもなるくない?

それで、今その練習をしている。まだなかなかうまくいかないけれど。

 

不安や恐怖をもってして子供を言い聞かせるのは、やっぱり「脅し」でしかない。

脅さないと、子供は言うことを聞かないのだろうか?

ちゃんと目を見て諭せば、わかってくれるんじゃないだろうか?

言うことを聞かないのは、わたしの言い方が下手なだけなのではないだろうか?

この練習は、そんなひとつの実験でもある。

 

 

Twitterでこんな発言を読んだ(本当かどうかはわからない)。

虐待を受けた、という自覚を持っている子供は、自分の中でその経験を処理できることが多い。逆に、受けた虐待を「愛情」と無理に合理化してしまっている人は、自分が子供をもったときに繰り返してしまうことが多い。

 

それを読んで、高校の倫理の授業中に、先生が言ったことを思い出した。

「君たちが将来子供をもったとしましょう。その子供が、バスの中でぎゃあぎゃあうるさくわめきだして、君たちが『静かにしなさい』と言うとする。そしたら子供が『何で静かにしなくちゃいけないの?』と聞いてきた。そのとき、君たちは何て答える?」

数人が当てられて、「周りの人に迷惑だから」「他の人を嫌な気持ちにさせるから」と答えた。先生は次々当て続けて、最後にわたしを当てた。

わたしは「うるさいから」と答えた。

先生はそこでやっと当てるのをやめて、

「やっと出た、その答え。土門は個人主義だね。欧米型」

と言われた。

「日本人は恥の文化。他の人の目線が、自分の目線になりがちだ。だからよく『ひとさまに迷惑をかけるな』という表現をするね。ひとの目が判断基準になる。

今土門は、『自分にとってうるさいから怒った』と答えた。自分が嫌だからやめてほしい、と言ったわけだ。

その目線は誰のものなのか?子供を叱るのは誰が怒るからなのか?

それを正しく把握することが、すごく大事なんだよ」

 

ふとそんなことを思い出して、わたしがれんたろうに怒るのは「しつけ」ではないとやっぱり思った。

怒るのは、ムカつくからだ。言うことを聞かないれんたろうにいらいらするからだ。

「愛情」や「しつけ」なんかではまったくない。

「ムカつく」という、下等な感情による行為によるものだ。

 

だからこの間、わたしが急いでるのにれんたろうがちんたらごはんを食べてるのを見て、ついカッとなってきつく怒ってしまったとき、

「ママ今ちょームカついてるんだけどー」

とさも下等そうに言ってみた。

そしたられんたろうは笑って、ごはんを黙々食べてくれた。

こんな下等そうな母親に言われたことなら、れんたろうも

「だめなママだな。こんなのしつけでもなんでもねえけど、しかたねえから言うこと聞いてやろう」

と思うだろう。(思うかな?)

 

「こんなのしつけでもなんでもねえ」

と思えることは、実はすごく大事だと思う。

しつけでもなんでもない、下等な怒りを、

「わたしのために厳しくしてくれてるんだ」

「わたしがだめだから、みんな怒るんだ」

と、履き違えるのがいちばんよくない。

 

自分はこのひとに不当に傷つけられてるんだ、

と自覚できるようにしないと、いじめられてるのに一生懸命学校に行ってしまうし、虐待やDVをされるのに家に帰ってしまう。

自分はこのひとに不当に傷つけられてるんだ、

と思えるというのは、自分を大事にして自分を守れるということだ。

悲しいことに、自分が傷ついているのかどうかは、自分にしかわからない。

自分の感覚を信じること、「自分の目線」をここでもしっかり持つことだ。

 

ただ、自分にとっての大事なひとが「不当に傷つけてくるひと」だったとき、それを認めたくないと思う感情がわくのは自然だと思う。

子供にとっての親はまさにその対象で、だからこそ、親であるわたしたちがしっかり自覚しないといけない。

 

「この目線は誰のものなのか」

怒ってるときは、だいたい自分だけの目線。自分勝手な、矮小な目線。

だけど、自分が傷ついてるんだって、ちゃんとわかってあげられるのもその目線だ。

 

 

そう思うと、れんたろうに怒ってる自分はまだまだ子供だな、と思う。

母親ぶってかっこつけてるけど、精神年齢はそんなに変わらないんじゃないかな。

子供が子供を育ててるんだと、毎日自覚してれんたろうと暮らしていこうと思う。

2016年6月のアーカイブ

これまでの連載