子供がかわいく思えないとき2016.8.31
わたしは、育児は「愛情」や「母性本能」じゃなくて、「意思」と「努力」でするものだと思っている。
もちろん「愛情」という嬉しいものがあればなお良いんだけど、感情や本能という自分の意思ではどうしようもない、ぶよぶよとした柔らかいものに頼り切ってしまうと、育児自体がぶよぶよと柔らかい、頼りないものになるような気がする。
育児はレクリエーションではなくて、生活の営みの一部分だ。
かわいい・大好きだという「愛情」ではなく、しっかり務めよう・毎日確実に行おうという「意思」で、育児はするものだと思う。
きらきらする必要なんてない、ただきちんとやるべきことをまっとうするのみの、所帯染みて泥臭い日々の営みだ。
それなので、よく悩み相談サイトなどで見かける「子供がかわいく思えない」という悩みに対しても、「母親失格」だとかはまったく思わないし、逆に「大いにありえることだ」と思う。
感情に「絶対」はない。意思でどうなるものでもない。そういう感情は誰にいつ起きるかわからない。「母親失格ですね」「大人になりきれていないですね」「子供がかわいそうですね」と、その悩みに返信を打っている人にだって、いつそういう感情が起こるかわからないのだ。
虐待の報道を見るたびに胸を痛めつつも、「明日は我が身だぞ!」と思う。
虐待をしないために努力をすることでしか、虐待はなくならないと思う。
ついこの間、もうすぐ生まれる二人目の子のため産休に入ったのだけど、その前かられんたろうにいくつかの変化が起こり始めた。
まとめると、
・文句や愚痴が多くなった
・赤ちゃん言葉を使うようになった
・私にべったりになった
・おっぱいを欲しがるようになった
という感じなのだけど、最後の「おっぱい」なんて完全に赤ちゃん返りだ。
「もう5歳になるのに?」と思ったけど、赤ちゃん返りに年齢は関係ないらしい。
大人だって、甘えたいときや気をひきたいときには赤ちゃん返りするじゃない。
となると、いわんや4歳児をや。
下の子の誕生を控えているとなればなおさらだ。
この間、寝る前にれんたろうが
「ママは、あかちゃんがうまれたらあかちゃんばっかりすきになる」
といきなり言いだした。
「ぼくはひとりぼっちになる」とまで言う。
誰かから聞いたのか、それとも自分でそう直感したのか。
「ママは赤ちゃんが生まれても、れんたろうのことが大好きだよ」
すぐにそう答えたし、それは本心ではあるけれど、自分の言葉のぺらぺらさに自分でもびっくりした。
正直なところ、最近のれんたろうにはうんざりすることが多かった。
「かわいくないなあ」と思うことも増えてきた。
というか「かわいい」と思うことが格段に減った。
これは、かなりショックなことだった。
動揺したし、自己嫌悪にも陥った。
れんたろうに申し訳なく思ったし、二人目が生まれるまでに何とかせねばと焦りもした。
それでも感情をどうにかすることができなくて、れんたろうを怒ることをやめられず、それにともなってますますれんたろうの態度は悪くなった。
だから、れんたろうにそう言われて、まさに図星をさされたような気がしてどきっとした。
さてここで冒頭に戻りましょう。
わたしは、育児は「愛情」や「母性本能」じゃなくて、「意思」と「努力」でするものだと思っている。
それなので、自分が「子供をかわいく思えない」と思っても育児をまっとうすることができる、と信じている。
信じているというか、そうするしかないと思っている。
「子供がかわいく思えない」と思ってしまうことは、もう仕方ない。
そこで自分を責める必要なんてちっともない。
そんなもんは女性ホルモンのバランスのせいにでもすればいい。
ただ、その感情を消すことはできなくても、隠すことはできるから。
れんたろうを傷つけないという「意思」をもち、かわいいと思っているふうに演じる「努力」はできるから。
それを一生懸命やることだ、と思う。
無理に愛そう・かわいがろうなんて思わなくていい。
ただきちんと毎日、「愛されてる」と実感させてあげること。
それを一生懸命やるのが育児だと思う。
と、自分に言い聞かせる日々だ。
そんなことを言っていても、わたしは具体的かつシンプルに物事を決めないと動けないので、
「毎朝起きたられんたろうを抱きしめる」
ということを必ずしようと決めた。
これなら簡単だ。とにかく抱きしめたらいいのだから。
昨日もそうしたし、今朝もそうした。
不思議なことに、これをやり始めてかられんたろうの情緒が少しずつ落ち着き始めた。
「ママ、だいすき」「ママとずっといっしょにいたい」と素直に言ってくる。
そうすると現金なもので、れんたろうがまたかわいく見えてきた。
スラムダンクのりょーちんも言ってた。
「しっかりしろォ!! 流れは自分たちでもってくるもんだろがよ!!」
って。
しっかりするぞ、お母さんは。