「表現されない」ものは「ない」ことととても似ている2017.3.7
先日、呼び鈴がなったので玄関に出てみたら、知らないおばさんがふたり立っていて、
「赤ちゃんの泣き声がしたもので」
とおっしゃった。
彼女たちはある宗教の信仰者で、わたしにチラシを一枚くれた。
そこには「子供への愛は、きちんと態度で表しましょう」と書かれてあって、おばさんも「愛しているだけではなく、それをきちんと表現して伝えることが大事なのです」とおっしゃった。
わたしは「そうですね」と、本当にそう思ったのでそう言って、朔太郎を抱っこしながらお辞儀して見送った。
朔太郎は5ヶ月になった。もう首も据わったし、下の歯が生えてきている。
話すことはもちろんできないのだけど、よく声をあげて笑うようになった。
それがとても可愛くて、何度も何度も笑かしてしまう。
ほおとほおをくっつけたり、鼻にかぶりついたり、抱っこして鏡の前に立ってお互いの姿を眺めてみたり。
笑うと、笑う。それがかわいい。それしかないので、ますますかわいい。
そういう可愛がり方、コミュニケーションの仕方を、廉太郎にはしなくなったなと思う。
廉太郎は話すようになったから、とわたしは思った。
うれしいの表現が「笑顔」しかなかったのに、「言葉」もできた。
からだだけではなく言葉で、気持ちをやりとりできるようになった。
得た言葉の分だけ、身体的な距離は大きくなっていくのかもしれない。
それでも、廉太郎の言葉はまだまだつたない。
「ぼく、おもちゃかってもらうのはじめて」
と以前廉太郎が言ったとき、
「嘘、はじめてじゃないでしょう」
とわたしは怒ってしまった。嘘をついて、他の人の気をひこうと思ってるのかと思ったからだ。
でも本当は、彼は「ひさしぶり」という言葉を知らないで、「はじめて」という言葉で代用しただけだった。
廉太郎は、わたしの誤解を解く言葉だって持ってない。
ちがうと思いながら、ちがうということをうまく説明できなくて、ただ顔を曇らせるしかできない。
彼の言葉はまだまだ短くて、その短い分、わたしがきちんと他の何かで埋めなくてはいけないんだなと思った。
そうしないと、廉太郎とのあいだに隔絶が生まれる。
それに気がついて「嘘ついたって勘違いして、ごめんね」と謝った。
謝ったら廉太郎は、「ママはわるくないよ」と言った。
朔太郎と比べると、廉太郎は大きく見える。
でも、廉太郎は、まだ5歳だ。
廉太郎が末っ子だったらどうだろう。
とても小さく、かわいくて、世話を焼きたく、見えるんだろうな。
わたしはときどき試しに、長男の廉太郎くんを末っ子の廉太郎くんとして見てみる。
長男の廉太郎くんには「ひとりでできるでしょ」とうんざりすることでも、
末っ子の廉太郎くんには「ひとりでまだできないか」とかわいく見えてしまう。
かわいく見えて、頭をぐりぐり撫で回すと、廉太郎はとても嬉しそうに笑う。
そしてうふふふふとにやにやしながら、抱きついてくる。
その抱きつき方が、もうどこか遠慮がちで、廉太郎には我慢させているんだなと気づく。
夜になるとわたしはもうめちゃくちゃに眠たいので毎日はかなわないのだけど、できるときには絵本の読み聞かせをする。
絵本を読むとき、わたしたちはぴったり横にひっついて、同じ紙面をみる。
わたしは、死ぬときに後悔するであろうベスト3には
「好きな人にもっと優しくしたかった」
というのが入ると思っているのだけど、つまりそれは
「愛していることを表現できなかった」
ということなのだと思う。
「表現されない」ものは、「ない」ことととても似ている(同じとは言わない)。
だから下手でも表現することが大事で、わたしにとっての表現法のひとつが「読み聞かせ」なのだった。
今日も優しくできなかった、おしゃべりを遮って「早くして」ばかり言ってしまった、転んだときにため息をついてしまった。
そういうことを帳消しにはできないまでも、「読み聞かせ」という行為でせめて少しでも愛を表現しようとしているんだと思う。
このあいだ、保護者面談のときに保育園の先生にそういうことを話したら
「こどもはみんなわかってますよ」
と笑っていた。
「れんちゃんは、お母さんがれんちゃんのことを大事に思ってるって、絶対にわかってます」
廉太郎や朔太郎のほうが愛情表現が上手。
おとなになるにつれ下手になるのかもしれない。
わたしも上手になりたい。
で、人生最後の日には
「好きな人にいっぱい優しくしたなー」
って満足していたい。