「先生、しんどいです」2018.7.1
4月に廉太郎が小学校にあがった。
子供用のスーツを着て、まだ筆箱しか入っていない大きなランドセルを背負う廉太郎を見て、「ああ、まだ小さいんだな」と思う。間違いなく、その日の一年生は、小学校のなかでいちばん小さな子たちだった。
入学式が行われる体育館は、そのときはまだ寒かった。
コートもマフラーも着込んだまま、わたしは自分の子供の後ろ姿を見る。
廉太郎は「起立、立ってください」「着席、座ってください」と言われ、立ったり座ったりしていた。そっか、まだ「起立」も「着席」も知らないんだなと思う。これから彼は、何度となく「起立」と「着席」を繰り返し、すぐに身につけてしまうだろう。
校長先生は女性の方だった。壇上に立った校長先生はみんなに笑顔を見せながらお祝いの言葉をかけ、それから「魔法の言葉」について話し始めた。
「みなさんに、学校生活が楽しくなる「魔法の言葉」を教えてあげます。この言葉を知っていたら、どんなときでも大丈夫。そんな魔法の言葉です」
一年生の子たちが、ちょっと笑いながら振り返ったり、となりの子と目配せしたりする。
わたしは「ありがとう、かな」などと想像していた。
すると校長先生はこう言った。
「ようく聞いてくださいね。それは「先生、しんどいです」です」
さあ、みなさんも言ってみましょう、と言われ、一年生の子たちがおずおずと口に出した。
「せんせい、しんどいです」
体育館に幼い声が響いて、保護者席でくすくす笑いが起きる。
わたしも笑った。それと同時に、なぜか突然涙が出てしまった。
校長先生は、「よくできましたね、その調子ですよ」と褒めた。
「学校に行きたくないな、なんだか楽しくないな、と思ったら、すぐにこの魔法の言葉を言ってください。絶対に、我慢しないでくださいね。どの先生でもよいですよ。そうしたら必ず、先生たちがあなたの力になります」
さあ、もう一度言ってみましょう。
子供たちは、さっきよりもずっと大きな声で言った。
「せんせい、しんどいです」
先月、廉太郎が学校で熱を出したと連絡があった。保健室にいるので迎えにきてくださいとのことだった。
その日の朝は、廉太郎が「気持ちが悪い」と言って朝ごはんを食べなかった。わたしはそれを、嫌いなものがお皿に乗っているからだと思って、「じゃあ食べなくていいよ」と冷たく言ってしまった。あれは本当だったんだ、と電話を切りながら思った。
大雨の日で、傘をさして学校まで迎えに行った。
保健室に行こうとしたら、保健の先生に抱っこされている廉太郎が目の前を通り過ぎた。明らかに苦しがっていて、先生が「痛いなあ、でも、すぐトイレつくから大丈夫やで」と言い聞かせていた。
「どうしたんですか?」も「大丈夫ですか?」も、どちらもおかしいような気がして、わたしは「あの」と声をかける。
先生はわたしを見ると、廉太郎がお腹が痛いと言い出したのだが苦しくて歩けないのだと説明してくれた。
男子トイレに入り、先生はずっと洋式の便器に座って唸っている廉太郎の手を握ってくれていた。「痛いなあ、しんどいよな」背中をさすったり、前から抱きかかえてあげたり。廉太郎は痛い痛いとしくしく泣いていた。
わたしは、小さな子供用スリッパを履いたまま、後ろでぼんやりと立つ。何もできずに、でくの坊みたいに。
なんて先生は優しいんだろうと思った。廉太郎もすっかり気を許し、先生にしがみついている。
「気持ちが悪い」という言葉を、わたしは仮病だと思ったのだ。
先生みたいな人がお母さんだったらいいのにな、とわたしは思った。廉太郎もそう思っているんじゃないかな、と。
保健室に戻り、廉太郎の帰りの準備をする。廉太郎は頭とお腹が痛くて歩けないと言う。
保健の先生は「雨だけど大丈夫ですか」と心配してくれた。
「おぶって帰るので、大丈夫です」
なんとなく、強がった気がする。先生みたいに優しくできたらいいなと思った気がする。
それで、大雨のなか、廉太郎をおぶって帰った。
「となりのトトロ」のメイとサツキみたいだな、と思う。廉太郎の腕が肩に、脚が腕に食い込んで痛い。サツキはまだ小学生なのに、こんなふうにして父親の帰りを雨のなか待ったのだ。たいしたものだなと思う。
息をあげながら歩いていると、うしろで廉太郎が「ママ、おもくてごめんね」と言った。
「ママこそ、朝、廉太郎の言葉を信じなくてごめん」
そう言ったら、「ママはわるくないよ」と廉太郎が言った。
「先生、しんどいです」
雨のなかを歩きながら、その言葉を思い出す。
「先生、しんどいです」の言葉を、校長先生は「どの先生にでもいいから言いなさい」と言っていた。だけど「お母さんお父さんに言いなさい」とは言わなかった。
もしかしたら先生は知っていたのかなと思う。「しんどい」と言われた親が、ちゃんとそれに応えられないときがあるということ。「しんどい」と言われた親のほうが、しんどくなってしまうこと。
先生は、わたしからひとつ仕事をとってくれたんだろう。わたしのかわりに、しばらくのあいだ廉太郎を抱っこして、手を握っていてくれた。
優しくなりたいな。そう思いながら、雨のなかを帰った。