星の王子さま2018.11.1
このあいだ、あるひとにこのようなことを聞かれた。
「土門さんは、未来に残したいものってありますか」
ひとと話していて初めて自分がこんなことを思っていたんだなと知ることって、よくある。この質問が、まさにそうだった。
未来に残したいもの。
自分がそんなことを聞かれ、考えるだなんて、思ってもみなかったなと思う。
そして、わたしはいつの間にか、「残される」側ではなく「残す」側になっているのだなと。この質問を発した彼の想定する未来に立っているのは、わたしではない。多分、わたしの子どもの世代や、その孫の世代のひとたちだ。
「未来に残したいもの」
質問をもらって深く考え込んでみたが、残したいものはないような気がした。けれど、なくなっていたらいやだなと思うものならあるような気がした(多分自分にとってその違いはすごく大事なのだと思う。これもひとつの大きな発見だった)。
わたしはこう答えた。
「なにかを美しいと思う心、です」
このあいだ、サン=テグジュペリの『星の王子さま』を読んだ。とても有名なこの本を、わたしは一度も読んだことがなかった。「こども向けの本」だと思っていたのだ。
わたしは「こども向けの本」が嫌いなこどもだった。「こども向けの本」はこどもをなめていると思っていたからだ。今思えば、いい本との出会いをしていなかったのだろうと思う。それとも心がかたくなだったか。
『星の王子さま』はとても大人な本だった。そのことにすごく驚いて、ああもっと早く読んでいたらと思った。そしてそれと同時に、今はじめて読むからこんなに心に響くのかもしれないとも。
「僕」が王子さまと出会って間もないころに、こんなシーンがある。王子さまに「花のトゲは何のためにあるのか」と聞かれた「僕」は、そんなことより飛行機を直そうと必死で、
「大事なことで、忙しいんだ、僕は!」
と、機械油で指を真っ黒にさせながら答えるのだ。
すると王子さまは「大事なこと!」と繰り返し、「おとなみたいな言い方だ!」と怒り出した。
「きみはごちゃ混ぜにしてる……大事なこともそうでないことも、いっしょくたにしてる!」
「ぼく、まっ赤な顔のおじさんがいる星に、行ったことがある。おじさんは一度も花の香りをかいだことがなかった。星を見たこともなかった。誰も愛したことがなかった。たし算以外は、なにもしたことがなかった。一日じゅう、きみみたいにくり返してた。『大事なことで忙しい! 私は有能な人間だから!』そうしてふんぞり返ってた。でもそんなのは人間じゃない。キノコだ!」
怒りのあまり、王子さまは真っ青になっていたという。
それを読みながら、わたしは恥ずかしくなる思いだった。「キノコ」とはわたしのことだ。「大事なことで忙しい」と言い続け、花の香りもかがない。それはつまり、わたしのことだった。
わたしがその本を読んでいるテーブルの向かい側で、廉太郎がラムネを飲んでいた。
目が合うと、廉太郎がこう言った。
「ママ、お願いごとがあるんやけど」
「なに?」
「今、本を読んでて忙しい」という言葉を呑み込んで、答える。
「このラムネのびんから、ビー玉をとってくれへん?」
すっごいきれいやねん、と、廉太郎は蛍光灯に透かしながら言った。
最近、夕方に朔太郎を迎えに行くと、帰り道に朔太郎がふと立ち止まることがある。
それで「どうしたん?」と聞いたら、空を指差して「ありわ?(あれは?)」と言うのだ。
「なに?」
見上げると、ぽつぽつと星が見える。それ以外には、なにもない。
「星?」
「おし」
そして、また歩き始める。名前を知ったことに満足したように。
こどもを育てていると、彼らが「美しい」ものにとてもよく反応することに気づく。
白い石だとか、流れる水だとか、すべすべの布だとか、早く走る赤い車だとか。
それらに彼らは簡単に目を奪われる。そしてそのたび、彼らはわたしに「早く」と急かされる。
廉太郎はわたしのアクセサリー箱を見るのがすきだ。
「ママのたからばこ、見てもいい?」
と、きちんと許可をとる。
「いいよ」と言うと、うわーと言いながらアクセサリー箱を開け、そこからガラス玉をひとつ取り出す。ずっとずっと昔に、縁日かなにかでもらって、そのまま放り込んでいたものだ。わたし自身、廉太郎が見つけるまでそんなものが入っていることも忘れていた。100円もしない、その小さなガラス玉を、廉太郎はまるで宝石のように大切に扱う。
「あげるよ」
と言うのだけど、廉太郎はもじもじして絶対にもらわない。
「ほんとに安物だし、あげるよ」
そう言っても、それはいつも「ママのたからばこ」に、そっと戻されている。
「なにかを美しいと思う心、です」
そう答えながら、「でも多分、人のなかには、それはもともと備わっているんだ」と思う。
ただ、失っていくのだと思う。「大事なことで忙しい」と言いながら、なにが大事なのかもわからないのに。
今朝、廉太郎がランドセルを背負ってドアを開けたとき、
「ママ! みて!」
と振り返って言った。
「もう八時なんだから早く行きな! ママも急いでるんだから」
そう返すと廉太郎は、
「雲、みて! おもしろいかたちだから!」
と言って、ばたばたと走って行ってしまった。
結局そのとき、わたしは雲を見なかった。
どんなかたちだったのだろうなと、急いで支度を済ませたあと、自転車に乗りながら思う。
「じゃあ秘密を教えるよ。とてもかんたんなことだ。ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目に見えない」
廉太郎が帰ってきたら、雲がどんなかたちだったのか、聞いてみようかなと思った。
青空が、とてもきれいだった。