音読

たぶん週刊ランラン子育て帖

どもんらんってどんな人?

2012年の1月、音読編集部のもとに赤ん坊が生まれました。名前はれんたろう。「にゃあ」というなき声がチャームポイントの男の子。新米ママ土門、今日も子育てがんばります。

できるけど、できない自分も受け入れて

5F7CEBC3-697A-4236-8FB2-2F88B7300EA1

 

朔太郎が3歳になった。

 

朝起きて、
「朔太郎、お誕生日おめでとう」
と言うと、
「たんじょうびー」
と言う。
「何歳になったの?」
「さんさい」
「3歳になったのか」
「うん」

 

かわいくて、このやりとりを3回した。
朔太郎は2度目も3度目も、新鮮なはにかみ笑顔を見せた。

 

クラスの中でも言葉が遅いほうだった朔太郎だが、少しずつ言葉を覚えてきている。
何を話しているのかわからない、赤ちゃんのようなこの喋り方も、気づいたときにはなくなっているのだろうなと思う。
それでわたしは、彼のこの喋り方を忘れてしまうんだろう。
7歳の廉太郎が昔どんな喋り方をしていたか忘れてしまった、今のわたしのように。

 

最近毎晩行うのは、お風呂の中でのお喋りだ。
ふたりで浴槽で向き合って、わたしが彼に「今日は何したの?」と尋ねる。

 

「きょうわ、おそと」
「お外で遊んだの?」
「うん」
「何して遊んだの?」
「いなくんとー、はるまとー、はなちゃんとー、あそんだ」
「そうなんだ」
「うん」
「何して遊んだの?」
「いちりんしゃ」
「一輪車乗れるの?」
「うん」
「ごはんは何食べたの?」
「りんごとー、ばななとー、おれんじ」
「果物ばっかりやね?」
「うん。あのね、もうあがるー」

 

いつも同じ会話だ。
朔太郎はいつもいなくんとはるまとはなちゃんと一輪車で遊んで、りんごとバナナとオレンジを食べたと言う。
それで最後に赤い顔で浴槽からあがる。そのときの朔太郎は、とても満ち足りているように見える。まるで、大人の質問に、自分がちゃんと答えられたのだというような。

 

最近は箸を使いたがったり、自分で服を選びたがったり、自転車は前より後ろに乗りたいという。
お兄ちゃんの友達が家に来たら、自分も遊びに参加しようとしたり、おもちゃをとられまいと必死になったりする(小学生男児たちはそんな朔太郎を見て、かわいいなあ、と言って笑っている。あの子らも大人になったもんだ)。
横断歩道ではわたしの手を握り、車が来ているのに行こうとすると「あぶないでしょ!」と怒ったりする。ずいぶん遠くにいる車が目の前を通り過ぎるまで、じっと固まって渡らせてくれない。自分では、一人前のつもりなのかもしれない。

 

 

だけどその一方で赤ちゃん返りのようなものも見られるようになってきた。
「だっこだっこ」としつこく言ったり、それが叶わないと床に転がってわんわん泣いたりする。

朔太郎はもう15キロになっているので、抱え上げるのも一苦労だ。
「もう重たいよ」と言うのだが、しがみついて離れない。
たたく振りをして本当にわたしをたたいてしまって、それにショックを受けてまた泣いたりする。
「一人前」と「赤ちゃん」を、朔太郎は行ったり来たりしている。

 

このあいだクラス会で、保育士さんがこんなことを言っていた。

「最近は、イヤイヤと言ったり、赤ちゃん返りすることも増えてきたと思います」

なるほど、赤ちゃん返りは「イヤイヤ期」のひとつなのかもな、と思いながら話を聞いていた。

 

「できることが少しずつ増えてきているこの頃は、『できるけど、できない自分も受け入れてほしい』という気持ちが前に出てくるときなんです」

 

できるけど、できない自分も受け入れてほしい。
その言葉を、頭の中で何度か繰り返した。できるけど、できない自分も、受け入れてほしい。

そしてようやくその意味を飲み込めたとき、ああ、その気持ちはすごくわかるな、と思ったのだった。

 

 

廉太郎が拙い言葉でおしゃべりをしていたときのことを忘れているように、「できる」はいつの間にか当たり前になり、「できない」は過去のものとして消え去っていく。

 

だけど、そのときの自分も忘れないで、全部受け入れて。

「できない」自分をないものにしないで。
そういうことを、朔太郎たちは言いたいのかもしれないなと思った。

 

お誕生日おめでとう、朔太郎。
できないあなたを、なるべく覚えていられますように。

2024年11月のアーカイブ

これまでの連載