音読

たぶん週刊ランラン子育て帖

どもんらんってどんな人?

2012年の1月、音読編集部のもとに赤ん坊が生まれました。名前はれんたろう。「にゃあ」というなき声がチャームポイントの男の子。新米ママ土門、今日も子育てがんばります。

愛されていた記憶について

S__5439492

もともと眠りが浅いのだけど、最近はとくによく眠れない。
心配ごとがあったり、気が高ぶっていたり、日中に得た情報量が多かったりすると、すぐに眠れなくなってしまう。

 

いつも子供の寝かしつけ時に一緒に寝るようにしているのだけど、最近は子供を寝かしつけても眠れなくて、真っ暗な部屋の中でじっとひとりで起きていた。

電気をつけたりスマートフォンを見たりすると目がますます冴えてしまうので、何もしないで考えごとをしている。
内容は、今取り掛かっている原稿のことや、次の日の取材のこと、それから友人と話した会話の内容、読んだ本、観た映画のことなど、どれもとりとめがない。

 

先日、相変わらず眠れないでぼんやりしていたらふと思いつき、自分の胸をとんとんと叩いてみることにした。
朔太郎を寝かしつけるとき、いつも胸や背中をとんとんと叩いてやるのだが、安心するのか数分後にはすっと寝入ってくれる。
あれを、自分で自分にやってみようと思ったのだ。そうしたら眠たくなるんじゃないかなと。

 

それでためしに、とんとんと軽く胸のあたりを叩いてみた。

するとふと昔の記憶がよみがえって、そのあまりの懐かしさに驚いた。
思い出したのは、母親の声で歌う「ねんねーよ、ねんねーよ」という子守唄だった。母の声、独特の節回し、それからわたしを抱き抱える柔らかい胸の感触も。

 

あの子守唄はほかでは聞いたことはないので、多分母のオリジナルなのだと思う。

その唄を、わたしは今の今まですっかり忘れていた。子供に歌ったことももちろんない。

だけど、わたしがわたしの胸を叩くとんとんというリズムは、完全に母のそれだった。
そのことを初めて自覚した。自分自身、そのようにして寝かしつけられていた子供だったんだなということを。

 

 

ずっと前に本で読んだことがあるのだけど、子供が親にしてもらって嬉しい行動のひとつに、「しゃがんで、両手を広げて待っている」というものがあるらしい。
親の開いた両腕の中に駆け込んで、ぎゅーっと抱きしめてもらうのが、子供にとって「愛されている」ということを実感できるとても嬉しい行為なのだそうだ。

 

それを読んで以来、なるべくその行為をするようにしている。

小学2年生になった廉太郎はさすがに照れるようになったのでしなくなったけれど(請われればする)、まだ3歳の朔太郎には毎日している。

 

朔太郎はわたしの次に早起きで、台所でわたしがお弁当や朝ごはんを作っていると、2階の寝室からひとりで降りてきて走り寄ってくる。

わたしはそれに気づいたらフライパンや包丁を置き、しゃがんで両手をぱっと広げる。そして飛び込んできた朔太郎をぎゅっと抱きしめ「おはよう」と挨拶し、頭をぐりぐりと撫で回し、ほっぺたをむぎゅーと両手で包む。朔太郎は声をあげて笑い、すっかり満足したら、おもちゃ箱のほうへと歩いていく。

 

 

こういうのってからだに記憶として残るんだろうなと、朔太郎を抱きしめながら思った。

 

大人になったわたしが、子供のころ寝かしつけの際にされていたことをすっかり忘れていたように、多分この子たちも、毎朝「おはよう」がわりにぎゅっと抱きしめられていたことをいつか忘れる。

でも、からだには記憶として残るんだろう。それもしぶとく。ふとよみがえるまで、ずっと染み付いて。

 

だから忘れたって大丈夫なんだなと、母の子守唄や、それにまつわるいろいろなことを思い出した翌朝にしみじみ思った。だってからだは覚えている。そしてそういう記憶が多分、ずっとわたしたちを守ってくれている。これまでも、これからも。母やわたしが、この先いなくなったあとも。

 

 

そして、愛された記憶が残るように、愛した記憶もまた、ちゃんと残るのだろうなと思った。

いつかわたしが「おはよう」と子供達を抱きしめたことを忘れても、わたしのからだはしっかり覚えているのだろう。

それならばせめて、その記憶を少しでも多くつくれますように。

2020年2月のアーカイブ

これまでの連載