自分で自分を愛する、ということ2020.5.1
このあいだ廉太郎から、
「どうやったら人からなめられないようになるの?」
という相談を受けた。廉太郎いわく「ぼくは人になめられがち」で、からかわれたり強く言われたりしがちなのだと。
親のわたしから見ても、廉太郎は温厚でほとんど怒らない子なので、言いやすい雰囲気だろうなとは思う。それで「何言っても怒らないと思われているんじゃない?」と返した。
「だから『なめてんじゃねえぞ』って怒るのがいいと思うけど」
それでさっそく怒るときの見本を見せてやったりしたのだが、廉太郎はそれができないのだという。というか、したくないのだと。
「だってぼくは、平和主義者やから。けんかはしたくないねん」
そう言われて、怒る見本まで見せていた自分がなんだか恥ずかしくなった(先に言ってほしい)。
でもまあ、平和主義者ならしかたない。その志を曲げてまで、なめてくる奴らに合わせる必要はない。
それで「怒る」ことをせずに「なめられない」ようになる方法を、わたしなりにずっと考えていた。
なめられるって、雑に扱われるということだ。
からだを、心を、大事に扱ってもらえない、ということ。
それなら、雑に扱われないためにどうすればいいんだろうか?
「雑に扱わないで」とお願いしても聞いてくれないだろうし、怒って拒否するのは廉太郎は嫌だという。
じゃあ、それをせずに「この子は雑に扱うべきではないんだな」と、人に思わせることができたらいいんだろうけれど。
それで廉太郎を眺めていたら、ふと、髪が伸びているなと思った。わたしは「あっ」と思いつき、「そうだ、美容院に行こう」と言った。
「きれいに髪を切ってもらえば、なめられなくなる気がする」
すると廉太郎が、「かっこよくなればいいってこと?」と聞いてきたので、「ちょっとちがう」と返した。
「ちゃんと自分を大事にすればいいってことだよ」
髪を切る、爪を切る、洗濯した服を切る、歯磨きをする。
つまりは身だしなみを整えるっていうことだけど、それは「清潔にする」ことだけが目的じゃない。本当の目的は、自分のからだを自分で大事にするということだ。
「大事にされているものって、丁寧に扱わなきゃって思わない? たとえば、荒れはてた花壇だったら土足で入れるけど、きれいに整えられた花壇だったら大事にしなきゃって思って、そんなことできないでしょう?」
廉太郎は、何を話し出したんだという顔をしながらも、うなずく。
「それは人間も一緒なんじゃないかと思う。まずは、自分が自分を大事に扱ってあげたらいいんじゃないかな。汚れたらきれいにする、疲れたら休ませてあげる、必要なものを与えてあげる。自分に大事にされている子は、他の人にも大事にされると思う。ああこの子は、大事にしなきゃいけない子なんだなって思うから。まあそれは本来、親が子供にするべきことなんだけど……」
すると廉太郎がいきなり「あ、それ、サルバドール・ダリやん!」と叫んだ。
「え、なに? ダリ?」
わたしの頭に、へにょっと曲がった時計の絵が浮かぶ。
「画家のダリ。知ってる? ひげがぴーんってなってる人」
「うん、ダリのことはわかるけど、それがどうしたん?」
まさかダリの名前がここで出てくるとは思わず、わたしは驚いた。
「今読んでる『失敗図鑑』に、ダリのことが書かれてんねん」
『失敗図鑑』とは、わたしの先輩が編集している本だ。偉人たちの「失敗」を集めた本で、すごいことをした人のダメな部分が描かれている。でも、ダメだからこそすごかったということがわかる、とてもおもしろい良い本だ。ルビがついているので、小学生から読める(お子さんにおすすめです!)。
「ダリにはお兄ちゃんがいたんやけど、生まれてすぐ死んでしまったんやって。そのあとに生まれたのが、あのひげのダリ。ダリって名前はもともとはお兄ちゃんの名前なんやけど、それと同じ名前をダリはつけられたんやって」
「あ、そんなこと書いてあったかも」
前に一度読んだのだけど、内容をずいぶん忘れてしまっている。廉太郎は、いきいきと話し続けた。
「だからダリは、お母さんとお父さんは自分じゃなくお兄ちゃんを愛してるんだって、ずっと思ってたんやって。それなら、自分が自分を愛してあげればいいんだ!って思うようになって、あんな変な感じになったって書いてあった」
へえー!とわたしは感嘆する。
「それ、すごいいい話やな」
そう言うと、
「今のお母さんの話と、おんなじやん!」
と、廉太郎はとても嬉しそうに言った。
本で読んで印象に残っていたこと、わたしの話したこと、それが自分の悩みとつながって、急にダリが身近な人に感じられるようになったのかもしれない。
「ねえ、ダリの絵って見たことある?」
そう聞かれたので、
「あるよ。ダリの絵が載ってる本、持ってるよ」
と言うと、
「まじで? 見たい。見せて!」
と喜んだ。それで本棚から持ってきて見せてやると「すっげー! めちゃくちゃかっこいいな」と興奮している。ダリのエピソードに、どこか自分と重ね合わせているのかもしれない。
「ダリはさ、自分で自分を愛してあげたんでしょう。だから、人の目を気にしたりせず、こんな絵が描けたんだよね。廉太郎も、まずは自分で自分を愛してあげたらいいんじゃない?」
そう言うと、廉太郎は「そうやな」と言った。
「まずは髪切りに行こう」
「そうやな」
廉太郎はうなずきながら、ダリの絵『ポルト・リガトの聖母』をじっと見ていた。
でもさっきも言ったけど、それはまず、親のわたしの役目なのだ。廉太郎を大事に扱わねばならないのは、まずはわたし自身だった。伸びている髪の毛に気づかなったことを反省する。まずはわたしが、彼を愛さなくてはいけない。
「自分の中にかくれているかもしれない才能を開くためには、不安な気持ちをいっさいもたず、自分のやりたいようにやってみることが必要です。人からみとめられる前に、自分の才能を信じてあげられるのは、自分だけなのです」
(大野正人『失敗図鑑』「ダリ 天才ゆえに死にかける」より)
確かにそう。でもできたら、親であるわたしも信じてあげられたらいいなと思う。
自分を愛することも、自分を信じることも、なかなか自然にできるようになることではない。
大事に整えられた花壇を見たことがない人に、花壇を大事に整えることはできないように。
誰かにそうしてもらったからこそ、やり方を覚えられることのような気がする。
とにかくまずは、髪を切りに行くことだ。
そんなことを思って、廉太郎が画集をめくっている横で、わたしは美容院に予約を入れた。