子守って「宝」を守ることなのかも2020.6.10
緊急事態宣言が解かれて、保育園に朔太郎をまた預けられるようになった。
三歳児を見ながら仕事をするのは無理難題だったので、かなり助かる。朝からNetflixを観せ、お昼寝をさせ(よく一緒に寝落ちした)、またNetflixを観せ、夕方になるとNetflixを観せすぎている罪悪感に駆られ、ほとんど捗っていない仕事を置いて鴨川へ連れ出し、晩御飯の支度をする。
そんな毎日だったので、また預けられるようになってほっとした。
この1か月ほどを経て、朔太郎にも変化があった。
「きょう、ほーくえん?」
と朝尋ねてくるようになったのだ。
「うん、保育園だよ」
と答えると、「ほーくえんいやや! かめんらいだーみる!」と言う。
「でも保育園行ったら、◯◯くんや◯◯ちゃんがいるよ。すべりだいとか、一輪車とかできるよ」
朔太郎の好きな友達や遊具の名前を出し、なだめながら保育園に向かう。前は「休む」という概念がなかったので、こんな質問はされたことがなかった。コロナ休みは、彼にとってそんなに悪いものでもなかったんだな、と、気持ちが慰められるような慰められないような微妙な気持ちだ。
もうひとつ変化があって、それは保育園に送り届けたあとに、
「おかあさん、またあそぼうねえ」
と言うようになったことだ。
「おかあさん、またいっしょにかめんらいだーみようねえ」
と言いながら、門のところで見送ってくれる。
「うん、みようね」
「びるどと、じろわん(ゼロワン)と、えぐぜいどみようねえ」
「うん、みようね」
そこまで言うと満足して、朔太郎は友達のところへと駆けていく。近所のおじさんがニコニコして「元気やねえ」と感想を言う。
きのう、保育園に朔太郎を迎えに行ったら、保育士さんがやって来て、
「最近朔太郎くん、よくしゃべるようになりましたね」
と言った。「きょうも『おやさいたべれたで』って僕に報告してくれました」と。
「ああ、そう言えばうちでも『さく、おおきくなったで。おやさいたべれたからー』って嬉しそうに話してます」
と朔太郎の言い方を真似しながら答えたら、「成長しましたねえ」と笑う。彼は、朔太郎が0歳のときに担任をしてくれた保育士さんなのだ。
「今の年齢の、たどたどしい喋り方って、本当にかわいいですよね」
わたしが「本当ですね」と同意すると、
「ちゃんと動画に撮ってますか?」
と急に真面目に言われて驚いた。
「いや、撮ってないです」
「この喋り方ってすぐ消えてしまうんで、絶対に撮り収めておいたほうがいいです」
「あっ、はい。そうですよね」
迫力に気圧されてそう答えたが、どうもその答え方に真剣みが足りなかったらしい。彼は重ねてこう言った。
「今の朔太郎君の喋り方は、本当に宝ですよ」
「宝?」
「すぐに消えてしまう宝です。だから、宝があるうちにとっておかないと」
朔太郎は、そんなことを言われているとはつゆ知らず、滑り台を滑りながらけらけら笑っている。
「保育士って、ほとんどトレジャーハンターですからね」
「えっ?」
聞き返すと、彼はうふふと嬉しそうに笑った。
「子供たちの、今しか持っていない宝を見つける仕事です。その時々で、違う宝が現れては消えていきますから、それをつかまえる仕事。書類の職業欄に『保育士(トレジャーハンター)』って書きたいくらい」
あははと笑っていると、「いやいや、ほんとに」と彼が言うので、また笑ってしまった。「トレジャーハンターかあ」とわたしも言う。
「いやでも、本当ですよね。子供ってその時々でかわいい、その時々にしかない宝を持っているものですよね。それを見落とさないようにしないといけないなぁ」
忙しさにかまけて、Netflixを観せ続けていた自分を少し反省する。あの時間にも宝はどんどん現れては消えていっていたのかもしれない。
すると、彼はこんなことを言った。
「お母さんたちにはお母さんたちのお仕事がありますから、そちらに集中してください。だから僕らがその間に代わりに宝を見つけて、教えて差し上げるんです。それが保育士の仕事なので」
なるほど、とわたしは今度は真面目になって彼の顔を見た。
そしたら彼は「いや、トレジャーハンターの仕事なんで」と言うので、また笑ってしまった。
朔太郎と手をつないで帰りながら、「子守」について考えていた。
よく「YouTubeに子守をさせる」とか「スマホに子守をさせる」とかいう表現を目にする。そういうものを手にすると子供がおとなしくなるからだけど、保育士さんと話をして、「やっぱり子守は人間にしか無理なんだろうな」ということを思った。
「子守って、宝を守ることなのかも」
ふとそんなことを思った。命を守るのはもちろん、子供の持つそのときどきの宝を守って、育てていくことなのかもしれない。
コロナ休みがきつかったのはだからだったのかと思った。
保育園に預けられないのがきつかったのは、仕事ができないこともそうだけど、子供の時間が無為に過ぎていくことのほうが辛かった。それはきっと、宝が誰の目にも止まらず消えていくのが辛い、ということと同義だったかもしれない。
でも、また保育園に来られて、こういう保育士さんに見てもらえるようになって、やっとわたしは安心できた。それはただ単純に子供を預けられることが嬉しいのではなくて、子供の宝を見てくれる人がいるのが嬉しいのだ。
わたしが見ていないときには、彼らが見てくれている。宝は彼らが見つけて、わたしにちゃんと教えてくれる。それが彼らの仕事だから。そのかわり、わたしはわたしの仕事をすればいい。ぐるぐると仕事がまわって、わたしのもとに宝が返ってくる。
ひとりで頑張らなくても大丈夫っていうのは、みんなで一緒に子育てしようっていうのは、きっとこういうことなんだろうな、と思った。
朔太郎がたどたどしい言葉で、
「きょうは、だんごむし、いーっぱいみつけたで」
と言う。
よかったねえ、と返すと、嬉しそうに笑った。
「かえったらいっしょに、かめんらいだーみよっか」
こういう笑顔が見られるようになったことが、とても嬉しい。