音読

たぶん週刊ランラン子育て帖

どもんらんってどんな人?

2012年の1月、音読編集部のもとに赤ん坊が生まれました。名前はれんたろう。「にゃあ」というなき声がチャームポイントの男の子。新米ママ土門、今日も子育てがんばります。

同じ歌を、違う言語圏で歌う

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小学3年生の廉太郎と話していると、「子供と話しているな」という感じがすごくする。

子供だから当然といえば当然なんだけど、なんていうか、違う言語圏で話をしている感覚。同じ日本語なんだけど、言葉にする範囲がちがうっていうのかな。それぞれの持っている守備範囲が違うから、意味はわかるんだけど体感的に染み込まないっていうか。だから会話をしようとするとつい互いに聞き流してしまうことが多い。うまく言えてます?

 

3歳の朔太郎は、言語圏がまだすごく小さい。使える単語が少ないし、文法の習得もまだあやふやだ。だから、話すというよりは意味を持って鳴いている、のほうがまだ近い。そしてそれはすごくかわいい。わたしたち大人は、彼らの鳴き声から意味を汲み取り、それを言葉にしてあげる。手をつないで、「歩くのが上手だね」「こっちだよ」と微笑み見守りながら引っ張ってあげる感じだ。会話の主導権は、大人にある。

 

だけど、廉太郎はもう8歳なので、ひとりで歩ける(話せる)し、行き先(話題)もわかっている。わたしもその横で一緒に歩いているのだけど、どうも歩いている道と歩き方と目的地が違う。だから時々ぶつかるし、見失う。それが自分にとっては少しストレスなのだと気がついた。

 

かと言ってわたしは、小学生の言語圏で話ができない。時々、廉太郎のクラスメイトの親御さんにそういう話し方ができる方がいる。小学生と大人でものすごく盛り上がって話しているのを見て、わたしは羨ましい反面、「自分にはできないな」と感じていた。なぜかというと、自分の言語圏のなかで凝り固まっているからで、子供の言語圏にどう合わせたらいいのかわからないからだ。子供の言語圏に自ら入っていくことは、なんだかサービスで演技をしている気持ちになるからできない、と思っていた。

 

だからわたしは、最近廉太郎とおしゃべりをすることが少し苦手だった。

「なあなあ、お母さん。世界でいちばん強い害獣ってなんやと思う?」と聞かれても、違う言語圏の話だから自分にはわからないと思って、「そんなことどうでもいいから早く着替えなよ」とか言っていた。

早く大人になってくれないかなあ、そしたらもっと話せるのに。そんなことを思いながら。

 

そして今朝、また同じやりとりを繰り返した。

「そんなことどうでもいいから、早く顔洗いなよ」

そのときふと、「あ、これ、わたしも言われたことがある」と思い出した。

 

「そんなややこしいこと考えてないでいいよ」

わたしの場合は、親や友達によくそう言われた。すぐに難しく考える、とか、考えなくてもいいことを考える、とか。当時の彼らがこの日記を読んだら「蘭ちゃん大人になってもそんななんだね」と笑われそうだ。でも思えば、彼らがかつて言った「そんなややこしいこと」と、わたしが今言う「そんなどうでもいいこと」は同じなのだ。

あのときわたしは身近な人と共有できない言語圏を持っていて、いつも他の人の言語圏に合わせて話す、という感じだった。だから、自分のサイズに合わない服を着るような気持ちだったし、世界が広がるにつれ自分の言語圏を共有できる相手に出会えたときにはすごくうれしかった。それと同時に、自分の言語圏外の人は排除するようになっていった感が否めなくない。

 

いま、子供にたいしてその「排除」する感じがが出ているな、と気がついた。

廉太郎に「早く大人になってほしい」なんて思っていたけれど、大人になっても違う言語圏のままな可能性のほうが高いのに、そうなったらなったでわたしは、「世代の差だね」と諦めるのだろうか。なんだかそれって、すごくもったいないなと思った(書いていて思ったけれど、「言語圏」は「価値観」とも言い換えられるかもしれない)。

 

今考えていることは、言語圏のちがいはそのままに話をすることはできないだろうかということだ。たとえば彼がソプラノを歌うのであればわたしはアルトを歌うというように、同じ歌をちがう言語圏で歌う、ということができないかなと思っている。ものすごくわかりあえる、ということはできないかもしれないが、それでも一緒に同じ曲を歌うことができ、この二人だからこそ奏でられるハーモニーも築けるんじゃないかと思う。

 

まずは「なにを歌う?」ということからはじめてみよう。

向こうが「この歌を歌いたい!」と言うのであれば、その歌を自分の言語圏で歌えるようになってみよう。

 

と、いろいろ書いてみたけれど、つまりわたしは子供たちともっとコミュニケーションをとりたいということだ。一緒に居られるのはあともう少しだから。わかりあえないことを年齢差や言語圏のせいにしないで、今の年齢差で言語圏で、少しでも多くの歌を一緒に歌いたいなと思う。

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