2022.9.29
最高の食卓を探して
何かを求め、見つけるために最初にすることは、その何かを定義することだ。
タイトルの通り、「最高の食卓」を探そうとするならば、まず最高の食卓を定義する。定義というと小難しい言い方だが、自分にとっての最高の食卓(=ゴール)がわからなければ、そこにたどり着くことは無理に等しい。たどり着いたかどうかもわからないのだから。
しかも、今回のテーマである食卓とは一人で作り上げるものではない。少なくとも家族、拡大すれば来客もその構成要素であり、その定義づけを困難にする。
おそらくは求める方向性を統一し、折り合いをつける作業だが、今風に言うならば各要素間でのプライオリティの設定というところが重要になる。
さらに、分解することで、より輪郭がはっきりする。最高とは何か、食卓とは何か、食卓における最高とは何か。定義そのものを分類し、背景や目的を理解する。
食卓を定義する上で、物理的な定義と心理的な定義に二分する。
つまり、食卓はどのような形状をしているか、という客観的な見た目に関する定義と、食卓はどのようにあるべきか、という個人的で主観的な定義を行っていく。
言うまでもなく、この後、最高という主観の化物を定義していく必要があるのだが、食卓の食卓以外の用途を考慮する上で、主観及び経験の分析が、結果を左右していくことになるだろうな、と緩やかに想像している。
文字通り最も高いものを求める場合、価格か床からの距離で数値化できるのだが、価格は上を見ればキリがないし、床からの距離はおよそ70数センチが一般的で、使い勝手を犠牲にしてまでわざわざ“最高の“食卓を求めようとは思わない。
そして、この思考のなかで「使い勝手」という着地方向は見えてくるが、かなり広範囲が示されている。
使い勝手を煮詰めた「機能美」という言葉がわりと好きで、華美な装飾の美しさよりも、使用のための機能を追究し、無駄を削ぎ落とした洗練した美しさという意味合いで使っているが、
こと食卓において、各種製品は機能以外の要素がかなりを占めている。
食卓の物理的な構成要素は大きく天板と脚の二つである。
天板は長方形、正方形、円の形状と素材、大きさ、色を選択することになる。
脚も形状と素材、色。これらの組み合わせで食卓が完成する。
特別な条件をつけず頭に思い描く食卓(ダイニングテーブル)は平たい板に脚が4本、四隅についている。100%と言い切ってしまいたいほど、ダイバーシティはない。
つまり削ぎ落とされたデザインは既に誰しもの頭の中にあり、製品として差別化するものは主たる機能面以外での付加価値しかないのである。
食卓を探し始めて、偽物について、コモディティについて考えさせられることになった。
定義づけだなんだと言ってはいるものの、最初にするのは理想の見本を見つけることであり、雑誌やインターネット、SNSで検索しまくるのである。いわゆるデザイナーズ家具が引っかかるようになり、椅子一脚8万円か、テーブルと椅子4脚で60万か、安いなと金銭感覚が異常になっていく。
その過程で、あれ、この8万円のテーブル、さっきの28万のやつと似てるな、ということに気づく。
コピー商品や類似品といっていいのかどうかも判断に迷うが、その類の存在だ。
どちらかと言えば、悪意があるのが大半だと思うが、著作権や特許のような法的な権利があるのか(おそらく意匠権が適用されるが)、国際的で長い歴史のあるデザインにもそれが通じるのかもわからないし、身も蓋もないが、所詮は天板と脚でしかない食卓は、流行に左右されにくいシンプルなデザインであることも多く、真似やすく、そうでなくても似やすい。
ここでふつふつと沸いてくるのが、本物である必要があるのか、という疑念である。
本物を最初に作られたものと仮定する。実際には本物が最初につくられたとは限らないと思うが。
創造、つまり何かを作りだす活動の中で、インスパイア、オマージュ、そして盗作、パクリとの明確な線引きは難しい。
元となったモノに対する敬意云々もそうだが、そもそも人が何かを作りだした、と言える時でさえ、それは過去の記憶の組み合わせ、編集でしかないと誰かが言っていると思うし、自分もそう思って生きている。
提案型の仕事のなかで実感を持つようになった気がするが、全く新しい案を考えついた瞬間でも、それは何かの焼き直しであり、そこに気づきにくいだけなのだ。みんなが気づかなければそれは創造になる。マンガ的な表現として、頭の中の電球が光るような瞬間が仮にあったとして、それは途切れていた線が繋がったに過ぎない。もともと電球はあったのだ。
この線の繋がりを創造と呼ぶかどうかは見解が分かれるかもしれないが。
しかも今検討している食卓は少ロットとはいえ大量生産の既製品であり、複製品である。
絵画や物語などとは勝手が違う。
最初につくられたものではない製品について、ただ似ているだけのものや、ジェネリックやリプロダクト、復刻等様々な呼び方をされるものもあるし、権利面での状況も異なっているだろうが、今は敢えてまとめて「偽物」というが、何がそれらを本物と分けているのか。価格やブランドタグがそうだろうが、使用する上では「影響のない」ものだと思う。
使えりゃいい、という思想のなかでは、本物か偽物かはどうでもいい。これが代替可能との意味で使われるコモディティである。
事例としては、まさに渦中となっている電力等のエネルギーが挙げられる。
コーヒーを飲みたいとして、湯を沸かす上で、電気ケトルかやかんか、電気かガスかはほとんどの人にとって関係ないし、発電方法が何であってもかわらないのだ。コーヒー飲むならソーラーよりも火力発電だなんて、違いがわかる人も真っ青なオカルトだ。電力なんて基本ブレンドでしょ、知らんけど。
閑話休題。
使う上でブランドの真偽は影響しないし、偽物で代替可能。ただし、これは本来の機能の側面であり、付加価値、例えば、有名デザイナーの家具を使っていることで高まる評価、ステータスには代えられない。ただ、これはまさに違いがわかる相手が必要になってくる。
食卓の違いがわかる人物があなたの近くにいるだろうか。しかも真偽を見極めるほどのとなれば可能性はかなり0に近い。
少し詳しい来客にこのテーブルは本物なら30万近いけど、8万円で買いましたと言うこともないし、言われることもない。
仮にこれは(30万する)あのブランドですよね、と言われれば、愛想笑いで切り抜けるしかない。嘘をつく必要はないが、相手の誤りを指摘することになり傷つけてしまうことになるから。
結果、他者を意識するだけなら偽物で構わないが、あとは自分との戦いである。
予算の意味でも、矜持という意味でも。ま、いくら本物だからって食卓を矜持にする意味はわからないですが。
というか、そもそも、最高の食卓の定義、終わってないけど、本質的には食卓ってテーブルや椅子そのものじゃないと思ってるんですよね。
て、ここでちゃぶ台を返して終わるのが真骨頂でしょ、食卓だけに。
とまあこんなことを書いておきながら、無印のパイン材折りたたみローテーブル2つを並べて、食べこぼしたり、撒き散らしたりしながら家族4人食事しているわけですが、さらに言えば自分は一人で食べることのほうが多いし、そろそろ椅子に座ってごはん食べようかな、食卓の選曲しようかな、くらいのきっかけが、考え出すと止まらないタイプなもので、よくわからない方向に、そして思えば遠くに来たもんだという感じになってしまった。
結局、最後に書いたとおり、食卓の定義をこれから突きつめていこうと思ってはいるのですが、必要に迫られた状況でもなく、時間をかけてゆっくり決断することになるでしょう。
最高の食卓、皆さんも考えてみてはいかがでしょうか。
広島出身だからかな、鉄板があると便利だと思うんだけど、機能美。
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