2018.5.7
【徳谷柿次郎さん】もともと何もない。ただ「生き残らないと」っていう危機感だけがあった。
■話し手
徳谷柿次郎さん 35歳
■プロフィール
徳谷柿次郎
1982年大阪生。編集者。
全国47都道府県のローカル領域を編集している株式会社Huuuuの代表取締役。どこでも地元メディア『ジモコロ』/小さな声を届けるウェブマガジン『BAMP』の編集長をダブルで務めている。全国を取材で巡りながら、長野と東京での二拠点生活中。
この記事を読んでから、柿次郎さんのことがずっと気になっていた。
「夜逃げ、ヤミ金、改名…理不尽スパイラルから救ってくれたのはインターネットだった。徳谷柿次郎の原点」
「今やメディアやイベントに引っ張りだこの柿次郎さんだが、10代では家庭の事情で極貧生活を強いられ、新聞配達と牛丼屋のアルバイトを掛け持ち。借金を返済しながら暮らしてきた過去」……
柿次郎さんは、編集者である。
どこでも地元メディア『ジモコロ』、小さな声を届けるWEBマガジン『BAMP』といったWebメディアの編集長を務めながら、現在は東京と長野での二拠点生活を基盤に、47都道府県を巡っている。
もともとは「日本一ふざけた会社」バーグハンバーグバーグに務めていたが、2017年に独立し、株式会社Huuuuを設立。Huuuuの社員は柿次郎さんひとりで、フリーランスの集合体として案件ごとにチームを組んで動いているらしい。
くだんの記事を読むまでにも、柿次郎さんの書いた記事はいくつか読んだことがあって、名前も存在も知っていた。まだ、会ったことも話したこともないときだ。おもしろいだけではなく、いつも何か心に残る「テーマ」がある人だなと思っていた。
SNSをフォローすると、彼の今気になっているテーマがダイレクトに伝わってくる。フックアップ、利己と利他、大衆と本質、自己実現と公私混同、パラレル親方、やってこ!、お店2.0……。彼が現在どんなことに興味を持ち、どんな言葉や尺度で世界をはかろうとしているのか。それがリアルタイムで更新される様子を見ながら、話をしてみたい気持ちだけが大きくなっていった。
多分、わたしは彼の生い立ちに、自分の生い立ちを重ね合わせていたのだと思う。
わたし自身親が別居をしており、決して裕福とは言えない家庭で育った。母は夜働いていたので、夜中は基本コンビニやスーパーの弁当でひとりで済ませていた。お金がないから、塾に行ったり習い事をすることができなかった。
よくグレなかったね、と今でも言われる。あの記事を読んだところ、柿次郎さんもそう言われる人だよな、と思った。離婚、親の借金、夜逃げ……。なのにグレないで大きくなって、いまも世界と自分なりの言葉で向かい合っている。それがなんだか、「同志」みたいに感じたんだろう。話したこともなかったのに、勝手な話なのだけど。
柿次郎さんと初めてゆっくり話したのはつい3ヶ月ほど前だ。
実際会ったときに「あ、グレてはないけれど、怒っている」と感じた。イライラしているとかムカついているとかでは決してない(むしろ彼はとても感じがいい)。根っこにずっと「怒り」があるような、何か燃えているような、そんな感じがした。
それが本当に「怒り」なのか。その話を聞きたいと思った。柿次郎さんは快諾してくれた。
そして、生い立ちからこれまでの話を丁寧にしてくれた。インタビューはわたしがこれまでした中で最長の2時間半になった。終わったあと柿次郎さんは「全部話さないと土門さんの聞きたいことにたどり着けないと思って」と言った。
先述の記事と内容が重複しているところもある。それを承知したうえでこの記事を書いている。それを書かないと、わたしが聞きたかったことにたどり着けないから。
惜しみなく話してくださった柿次郎さんに、心より感謝いたします。
こんな環境では夢も希望も持てない
- 土門
- 柿次郎さんってよく「目が笑っていない」って言われませんか。
- 柿次郎
- めちゃめちゃよく言われます(笑)。なんでですかね? 一重だから? こんなににこやかに笑っているのに。
- 土門
- この間初めてゆっくりお話させていただく機会があったんですけど、そのとき「なんだろうな、この迫力は」ってすごく気になったんですよ。すごく優しくて、人当たりも良いのに、根っこに静かな「怒り」を抱えている感じ、って、あのときは思ったんですよね。不思議だなあって思っていて。
- 柿次郎
- 日記でそう書いてくれてましたよね。読みました。
- 土門
- でもその「怒り」が美学とか行動に昇華されてる感じっていうんでしょうか。火を燃やすように生きている人だなと。ただの感覚なんですけど。今日はそのルーツみたいなことをうかがえたらいいなって思っています。よろしくお願いします。
- 柿次郎
- はい、よろしくお願いします。
- 土門
- 柿次郎さんは大阪で育って、26歳で上京されていますよね。まずはそれまでのことをうかがいたいのですが、高校卒業後、大学には行かれていたのでしょうか?
- 柿次郎
- 行ってないです。最終学歴は高卒ですね。
- 勉強もできなかったし、そもそも家にお金がなかったので。
- 土門
- 最初から諦めていた?
- 柿次郎
- はい。行けるって思ったことがなかったです。
- 家に金がない、みたいなのを感じ始めたのは中学のときかな。バスケ部に入ったんですけど、バッシュを買うのが一番最後だったんですよ。2ヶ月後くらいに親父がなんとかお金を工面して買ってくれたんですが……。そっからどんどん家から金がなくなっていくのを子供ながらに感じてました。そのきっかけが、サラリーマンだった親父が会社辞めて独立したことだったんですけど。
- 土門
- お父さんは何をされていたんですか?
- 柿次郎
- もともとは、親戚の小さな電気工事系の会社で課長かなんかやっていたみたいです。いまだによくわかってないんですけど(笑)。
- 両親は僕が小二のときに離婚して、僕と兄・弟の3人の子供は親父のほうについていったんですけど、そのあと親父が再婚したんですね。継母の子も男ふたりの兄弟だったから、合計五人の男兄弟になって。
- 土門
- 一気に5人兄弟に。
- 柿次郎
- そのタイミングで、4LDKの新築マンションを親父が買ったんですよ。多分7千万くらいじゃないかな。別に金持ちでもなんでもなかったんですけど、そのころバブルだったからローンもゆるく組めることができたっぽくて。
- そのあとに親父が独立して、何でも屋みたいなのを始めたんですけど、まあ全然計画性がないのでうまくいかなくなって。家から金がどんどん出ていって、借金もすごくなっていって、ギャンブルにもはまっていって。
- 土門
- でも育ち盛りの男の子たちが五人もいるという。
- 柿次郎
- 今思うと大変だったろうなと思いますよ。家の中も結構ピリピリしてました。
- 親父は出ずっぱりなので、家では継母が実権を握るようになるんですけど、やっぱり実の子のほうがかわいいみたいで、待遇が明らかに違うんですよね。あっちの兄弟だけ個室が与えられてて、飯の品数や量も多くて……みたいな。僕も遠慮してあんまり飯食わなかったですね。だから痩せてるんだと思うんですけど。
- 土門
- 食べ盛りなのに。かなり理不尽な環境だったんですね。
- 柿次郎
- 理不尽でしたねえ。まあ、再婚した親同士、いま考えると人間ができているタイプとはあんまり……。お互い複雑なモノを背負ってたんじゃないですかね。現在は親を憎むような気持ちは一切ないんですけど、理不尽に対する反抗心はありました。その怒りみたいなのは、常に僕の根っこにあるかもしれないですね。
▲柿次郎さんのPCに残っていた「実家最後の日」フォルダの中の1枚。実家の台所の風景。
- 土門
- 結構早いときからバイトも始めてたみたいで。
- 柿次郎
- そうですね、新聞配達のバイトは15〜16歳くらいからかな。途中やらない時期ももちろんありましたけど、5〜6年はやってたような。とにかく生きてくためのお金を稼がなきゃって思って。ひとりで朝刊配ってる方が気楽だったんです。
- 土門
- 勉強に興味をもったことは?
- 柿次郎
- まったくなかったです。そもそも勉強が好きじゃなかったし、塾にも行けないですしね。
- 漫画とかテレビとか音楽とか……そういうお金のかからないカルチャーにどっぷり傾倒していました。
- 新聞配達しながら音楽聴いて、終わったら古本屋やTSUTAYAを自転車でまわりまくって、少しでも安く本やCDを手に入れる、みたいな。たとえば漫画だったら、歯抜けでもいいから少しでも安いものを探しまくって、こつこつ全巻集めるって感じで。
- 金がないから、そういうやり方でしか文化に触れられないんですよね。ものすごいコスパ悪いんですけど、そのときの物に対する収集癖とか執着心とかは、今でも残っているように思います。
- 土門
- こういう仕事がしたい! とかは、当時なかったんでしょうか。
- 柿次郎
- 全然なかったですねえ。
- でも、16くらいのころかな。自分でもこの閉じた環境に危機感を覚えて、外との接点を求めていたのか、新聞に挟まっていたパソコンの広告を見て、「買わなきゃ!」って思ったんですよ。48回払いの、Macのパクリ品みたいなパソコンなんですけど。「これを買わなきゃ俺の人生はまずい」って本能で察したのかもしれません。
- それで、親父に買ってくれって頼み込んで、なぜそれが必要かってことを生まれて初めてプレゼンしました(笑)。親父も、こんな環境では僕が夢も希望も持てないことに気づいていたんでしょうね。全然金ないのに、それだけは買ってくれたんです。それからインターネットをやるようになったんですよね。今思えば、それが今に繋がる起点かなと思います。
初めての成功体験は『ミュージックマガジン』
▲「実家最後の日」フォルダより。「至急」ポケットには、支払い書の束が。
- 土門
- 高校を卒業したあとはどんな仕事をしていたんですか?
- 柿次郎
- 新聞配達をしながら松屋とかロイヤルホストとか……基本飲食バイトしかやっていないですね。バイトに明け暮れて別に将来の目標もなく……完全に「無」でした。
- 土門
- それが、今の仕事に繋がる転機って何だったんでしょう。
- 柿次郎
- 買ったパソコンでインターネットを始めてから、外とつながるための表現みたいなのをするようになったんですよ。当時流行していたテキストサイトを作ったり、ブログで漫画やCDのレビューを書くようになったり。
- それがきっかけで、のちに僕が入ることになる会社・バーグハンバーグバーグのシモダに初めて声をかけられました。「お前のレビューええやん」って。
- 土門
- それがきっかけで知り合ったんですね。
- 柿次郎
- そうです。シモダもまだ学生で、友達として会うって感じでしたね。
- それと同時期に、音楽雑誌の『ミュージック・マガジン』の編集長からも連絡があったんですよ。「うちで書いてみませんか?」って。
- 土門
- え! すごい!
- 柿次郎
- そう。もうほんとにそのときは嬉しすぎて。「うわ〜〜!!!」みたいな(笑)。それが僕の人生で初めて夢を持てた瞬間でしたね。
- 土門
- じゃあ、初めは音楽ライターを目指していた?
- 柿次郎
- そうなんです。初めてのレビューははライムスターの『グレイゾーン』ていうアルバムだったんですけど、新聞配達しながら10回も20回も聴くわけですよ。で、家に帰って、レビューっぽいのを「書くぞー!」って書く。だけどできあがったら、そこには最悪な文章ができあがっているんですね。なぜなら商業的に書くってことを何も知らなかったから。音楽ライターへの憧れだけがあって、修飾語と比喩表現だけを詰め込んでもはや原型がないみたいな文章で(笑)。それでも何度かダメ出しを受けながら、なんとか納品して。
- 土門
- それが初めてのライティング仕事だったんですね。
- 柿次郎
- そう。半ページ4000円くらいだったのかな。それが自分にとっては本当に嬉しくて、初めての成功体験でした。結局5,6回やって、仕事は来なくなってしまったんですけど、そこから「ライターになりたいな」って思うようになりました。
- 土門
- もともと書くことは好きだったんですか?
- 柿次郎
- どうだろう。僕の手元にはパソコンと細い回線しかなかったから、できる表現方法がテキストしかなかったんですよね。選択肢がそれしかなかったっていうか。今の子がスマホ使って動画で自己表現するのと同じだと思います。
1度目の上京、最大の挫折
- 柿次郎
- そのあとかな。僕、23のときに一度上京しているんです。
- 土門
- それは「書くこと」を仕事にするために?
- 柿次郎
- いや……完全に勢いだけですね。もうここから脱け出さなあかんと。「東京行ったらなんとかなる!」って思って、貯金10万円しかなかったのに上京しました。
- でもほんと、何もできなかったですね。そのころシモダはもう東京で働いていて「今度企画会議やるからお前も来い」って声かけてチャンスをまわしてくれてたんですけど、そこに行っても何も言えないし何も動けなくて。シモダにも「お前何やってんねん、もっと動けよ」って怒られて。
- 結局、仕事も見つけられず、お金も尽きて、何もできないままに大阪に逃げるように帰ったんです。
- 土門
- そしてまたご実家に。
- 柿次郎
- そう。でも帰ったところで、何も状況は変わっていないんです。むしろ家のなかはひどくなっているわけですよ。親父の借金問題も加速していて、家も引越しを繰り返してどんどん小さくなっている。弟は僕と同じように新聞配達をして、お金を家に全部吸い取られている。
- そのほかにも身近な人が死んだりとか、すごい辛いことが重なってしまって、そのときはいちばん落ちた時期じゃないかな。友達に「辛い」って言ったら、「これ飲み」ってハルシオン(精神安定剤)をくれて(笑)。それをポリポリしていましたね。
- 土門
- それはあまりポリポリしたらだめなのでは……。
- 柿次郎
- そうなんです。ポリポリしてたら気分が上がらなくなっちゃって。負のループから気持ちが抜け出せなくなって鬱になってしまったんですよ。パキシルとかハルシオンとか、ポリポリが増えて……それを飲みながら我慢してバイトに行っていました。なぜなら家に本当に金がないので、メンタルがだめでも働かないといけない。心療内科に通って薬をもらいながら、また松屋でバイトをするっていう状況でしたね。
- 土門
- 過酷な時期でしたね。
- 柿次郎
- でも、その間もずっとシモダが声をかけてくれていたんですよ。「お前今何してんの」って。そのころシモダは個人で『オモコロ』っていうメディアを立ち上げて注目されていて、今でいうオウンドメディア系の仕事もよく入るようになっていて。で、「今度ネタ出し会議やるし来ぉへんか」って、またチャンスをくれたんですよね。それで「行かねば」と食らいつくように、ネタ出しのためだけに夜行バスで東京に行ってましたね。
目の前で「Cランク」と書き込まれた
- 土門
- シモダさんは柿次郎さんのこと本当に気にかけてくれていますよね。
- 柿次郎
- そうですね。そのころかな。シモダに「柿次郎」って名前をつけられたのは。
- 土門
- (笑)そもそも柿次郎ってどういう意味なんですか。
- 柿次郎
- いや、僕にもわかんないんですよ(笑)。いきなり「今日からお前は柿次郎な」って言われて。最初はずっと拒否してたんですけど、おもしろがって他の人たちも「柿次郎」って呼び始めたんです。
- でも今思うと、大阪でくすぶっている僕をいじって元気にしようっていう、みんなの優しさだったのかもしれませんね。
- 土門
- ポジティブにとらえるとそうですね(笑)。
- 柿次郎
- そう思えるのに8年かかりましたけど(笑)。それである日、とうとう僕は「柿次郎」という名前を飲み込んだんです。腹をくくって名刺も作って、「柿次郎です」って名乗るようになって。名前を変えるわけですから、まさにアイデンティティーの上書きですよね。
- でも、そこから「柿次郎って本名?」って引っかかってくれる人が出てきたんですよ。そのうちのひとりが、『R25.jp』のデスクとして携わっていた編集者の宮脇淳さんだったんです。彼が僕を覚えていてくれて、それである日大阪の松屋でバイトしてたら、メールをくれたんですよね。「今大阪なんだけど、近くにいるならお茶しない?」って。僕が大阪でバイトしていることを、覚えていてくれたんです。
- そのときはもう、真っ先に飛んでいきましたね。一緒にバイトしてたスタッフの雅子っていうおばちゃんに、「雅子ごめん! 今東京のすごい人から連絡が来て、チャンスやから行かなあかんねん!」って締め作業のすべてを託して行きました。雅子は僕の夢を知っていたから「まかしとき!」って言って送り出してくれて……。
- 土門
- 雅子さん、いい人……。
- 柿次郎
- それで宮脇さんと話をして「柿次郎はこの先どうしたいの?」って聞かれて。で、僕は「やっぱり東京行って書く仕事したいです」って言った記憶があります。でもまあ、どうしようもなく、くすぶったままで。
- 26歳になったぐらいの頃ですかね。ある日、シモダからMSNメッセンジャーで連絡が来たんですよ。「お前はいつまでそんな生活をしてんねん」ってエクセルシートが送られてきて。「とりあえず50万円貯めて上京してこい。50万貯まるまで毎月貯金額を報告してこい」って言うんです。
- そのエクセル、何も関数が使われていない、黒線を引いただけの表なんですけどね。でも、それからは何かふっきれたというか。必死で働いて、本当に半年くらいで50万貯めたんです。松屋とスーパー銭湯のバイトふたつ掛け持ちして、毎日3時間くらいしか寝てなかったですね。
- 土門
- すごいエネルギーですよね。それは、ほんとにここから抜け出さないとっていう一心から生まれたものだったんでしょうか。
- 柿次郎
- ですね。上京前に、すごく象徴的な嫌なことがあったんです。ある倉庫で日雇いのバイトをしたことがあったんですけど、それが年下の男に顎で使われながら、めちゃくちゃ重たい荷物を運び続けるっていう内容の仕事だったんですよね。もう「何これ!?」ってくらいすごいきつくて。それでぜいぜい言いながら退勤の報告をしにいったら、最後にその男に目の前で「Cランク」って書き込まれたんですよ。「動きが悪い」って言われて。
- 土門
- うわあ……。
- 柿次郎
- そのときは心から、こんな屈辱的な思いは二度としたくないって思いましたね。どれだけ理不尽な家庭環境は耐えられても、見ず知らずの他者から自尊心を踏みにじられるのは耐えられませんでした。その出来事もあって「本気で頑張らな。全員見返してやる」って思ったんでしょうねぇ。
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