音読

スタンド30代

論語に「三十而立」とあるように、孔子は「30歳で独立する」と言いました。
とは言え、きっと最初はうまく歩けないし自信をなくすこともあるだろう30代。
転職、結婚、出産と、覚悟を決めることが多くていろいろ微妙な30代。
でもきっと、その人の思想や哲学が純粋に表に出るだろう30代。
『スタンド30代』とは、そんな今を頑張って生きる30代を、30代になったばかりの土門蘭がインタビューする、「30代がんばっていこうぜ!」という連載です。

書き手:土門蘭プロフィール

【徳谷柿次郎さん】もともと何もない。ただ「生き残らないと」っていう危機感だけがあった。

弱いメンタルをガチガチに上塗りしている

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柿次郎
それで二度目の上京をして、今度はちゃんと部屋も借りて、松屋とパチンコ屋でバイトも始めました。そのかたわらで「なんでもやるので仕事ください!」って企画やライティングの仕事ももらったりして。
でも僕には技術も経験もないので、当時はとにかく体を張ってましたね。シモダから振られた『オモコロ』の仕事でやったのは「ひとりディズニーシー」とか「犬のフンを嗅ぎながら白米を食べる」とか「処刑BBQ」とか……。
土門
……えっ?
柿次郎
ディズニーシーで四隅を探してくるとか、池の水を飲むとか、それを30分ごとにレポートするとか。犬のフンをもらえないかペットショップで打診するとか、そのフンを鉄板で(以下自粛)。でもその企画が結構当たってウケて、成功体験にもなっちゃって。

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▲『オモコロ』企画のひとつ、処刑BBQの様子。「柿次郎、タレ目につき処刑致ス」。

 

 

土門
本当に体張ってたんですね。結構きつかったと思うんですけど、「もうやりたくないな」って思うことはなかったんですか?
柿次郎
うーん、あったかもしれないけど、やるしかないですからね。僕に『オモコロ』的な才能があればよかったんですけど、それがなかったんで。まわりにはいっぱい才能ある人がいるのに、僕はずっと「おもしろくない人間」だった。そのコンプレックスがすごくあったんだと思います。それを壊すために、噛みつかれたらこっちがかぶせるくらいの勢いでやっていました。その反骨精神みたいなのは姿勢として染み付いてしまってますね。
 
本当は僕、めちゃめちゃメンタル弱いんですよ。でもそれじゃ生きていけないから、弱いメンタルをガチガチに上塗りしているだけなんですよね。
「柿」っていう文字を肩に刺青したのもこの時期です。無理やりつけられた名前ですけど「柿次郎」って名前を背負ってやってくんだっていう意思表示のために。そういう意味では、アイデンティティの強制的な上書きの時期だったんだと思います。
刺青したらビビるやろなって思ってたら、シモダは引くどころかめちゃめちゃ目キラキラさせて喜んでましたけど(笑)。

「そっちのほうが絶対おいしい」という本能的判断

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▲ノオト時代、27歳の柿次郎さん。

 

 

土門
そのあと、有限会社ノオトに入られてますね。
柿次郎
そうです。宮脇さんの会社ですね。そこにライターとして拾ってもらって。初めての会社員に。
土門
インタビューで読んだんですけど、史上最長の研修期間だったとか……。
柿次郎
そうそう。出来が悪くて、10ヶ月以上かかりました。 そもそも社会人経験もないし、文章のてにをはだったりもちゃんとできていなくて。こういうふうに書いたらいいよっていうのを、そこで初めて人から教わったんです。
 
ノオトの取締役は宮脇さんの奥さんなんですけど、彼女は僕を採ることにはじめ反対してたらしいんですよ。そりゃあそうですよね。何もできないんですから。でも宮脇さんがすごく推してくれて、入社することができたんです。
土門
シモダさんも宮脇さんも、すごく柿次郎さんのことを気にかけてくれていたんですね。
柿次郎
ほんとに。何ででしょうね……。必死だったからかなあ。とにかく、人がやらないことを率先してやろうとしてたので。入社初日にやることがなくて社長の机拭いたりとか。こいつに何かさせないとって思ってくれたのかもしれない。
土門
そこでようやくライターとして軌道に乗り始めたんですね。
柿次郎
いやでも、ライティングの仕事をやっていくうちに「これは僕には無理やな」ってわかったんですよね。
土門
え、それは何でですか?
柿次郎
もう、「むずいな!」って思って(笑)。
 
そのころ『R25』の制作に携わっていて、リクルートの人とやりとりしていたんですけど、その人たちがゴリッゴリに優秀なんですよね。スケジュールもしっかりしているし、良いものができるまで妥協せずに何度もやりとりする。必死で仕事していたらたまに褒められることもあったんですけど、ああもうこれは僕には無理やな、どれだけ頑張っても上にはいけないなって思ったんです。2年間自分以外のすごい人たちと仕事をしていくうちに、ライターとしてやってく自信をなくしてしまったんですね。
 
ちょうどそのころ都内に引っ越して、同じく都内に住んでいるシモダとよく飲むようになりました。シモダはバーグハンバーグバーグっていう会社を三人で立ち上げたころだったんですけど、ある日「バーグに来ないか」って言われたんです。それが四人目っていう、すごくおいしいポジションだったんですね。
 
ライターとしてやってく自信もなくなってたときだったし、バーグに今入ればこれまでいじってきた奴見返せるんじゃないかなっていうのもあって。そこからかなり悩んだんですけど、でも結局「バーグに入る!」って決めたんです。
土門
2年勤めたノオトを辞めようと。
柿次郎
はい。宮脇さんにはめちゃめちゃ止められました。まあ、そうですよね。育ててきてようやくものになってきたところで辞めるとか、ありえないですから。
しかも3年目に入るタイミングで、給料も年齢給くらいに上げてもらった直後だったんです。当時同棲していた彼女(現妻)にも、さすがに止められました。
それでも「辞める」って言って譲らない僕に、宮脇さんが「じゃああと半年待て。その間にお前に足りないものを教えるし、積立の退職金ももらえるように手配しておくから」って言ってくれたんです。
土門
何て男前な社長!
柿次郎
本当に良い社長です。それでも僕は「いや、今辞めます!」って言って聞かなかったんですよね。
土門
えっ!? 半年待たなかったんですか?
柿次郎
待たなかったです。「テンション高いときにいかないとだめなんで!」って言って、そのご厚意も断ってしまいました。
でも、もちろん宮脇さんにも申し訳ないし、彼女にも申し訳ない。頑固ではあるけれど、その決断が平気なわけではないんですよ。ストレスで舌がしびれる病気「舌痛症」にもなったりしながら、ノオトをあとにしました。
土門
何でそんなに固く決めていたんですか。
柿次郎
何でなんでしょうね。「そっちのほうが絶対においしい」っていう判断を、本能的にしていたんだと思います。もしこのタイミングで僕がバーグに入らなかったら、その間に別の人間が入るじゃないですか。5番目だと意味がない。今このタイミングで動いたら「おもしろい」と思ってもらえる! っていうのに、すごく執着していたんですね。
僕は何の才能もないけれど、そういう嗅覚だけはいいんです。「ここは行っとけ!」っていうポジション取りにすごく敏感。口にするとせこいやつですね(笑)。生き残るためにはそれをし続けないといけないって、どこかで強く思ってるのかもしれません。

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▲バーグハンバーグバーグに転職。4人目のメンバーに。

 

柿次郎
とはいえ、バーグに入った当初は、全然企画が出せなかったんですよね。周りの人が大喜利みたいにぼんぼんおもしろい企画出しているのに、自分は何にもアイデアを出せなくって。で、「ああこれは、大喜利できる人たちとは違うかたちで喋れるようにならなあかんな」って思いました。それでとりあえず喋りをうまくしようと、友達とトークイベントを主催するようになったんです。そんなふうにバーグの外で活路を見出すうちに、人前で話す自信が溜まっていって。そしたら急にバーグ内でも喋れるようになって、アイデアが採用されるようになりました。
 
そうこうしているうちにオウンドメディアの仕事も複数いただくようになって、気づいたら編集の仕事についていましたね。企画出して、書いてもらって、公開して。それまで自分が羨んでいたプレイヤーたちと「編集」として関わるのはすごく楽しかった。そこから「編集っておもしろいな」って思うようになりました。
それで、バーグで最終的にたどり着いたのが、今も自分が編集長を務めている『ジモコロ』というメディアです。

自分にとっての「編集」とは、利己のための利他。

柿次郎11

 

土門
今のお仕事である「編集」にたどり着くまでのお話を聞いていて、ほんとにすごいなって思うのが、これまでの柿次郎さんの行動が全部「ない」から始まってるっていうことなんです。「ある」とか「得意」だからやるっていうんじゃなくて、お金がない、仕事がない、書く・話す・アイデアを出す力がないっていうところから、どうにかして這い上がっているエピソードがとても多いですよね。
柿次郎
そうですね。本当に、もともと何もないですから。ただ「生き残らないと」っていう危機感だけがありました。
そういう意味では、こだわりもないんです。たまたまネットきっかけで人と出会って活路を見出してきたっていうだけで、インターネットが大好きってわけではない。この仕事をずっと続けたいっていうわけでもないんですよね。
土門
その「生き残らないと」っていう危機感はどこから来てるんでしょうか? やはり、幼いころの家庭環境でしょうか。
柿次郎
それは大きいと思います。家族のつながりが希薄だとか、貧しかったからとか……。
そういうのに端を発して、僕は自分の血をどこまで残せるかっていう、「血」への欲求とかあこがれがすごいんだと思います。
土門
「血」への欲求。
柿次郎
はい。「血」っていうのは「血筋」っていう意味でもあるんですけど、単純に「精子」っていう個人の問題でもあるんですよ。僕ね、「精子が弱いんじゃないかな」っていう強迫観念が昔からあって。
土門
えっ。それは何でですか?
柿次郎
中学くらいから、コンビニ飯ばっかり食ってるんですよ。松屋で働いてからは、年間8割くらいの飯を松屋で食ってたんですよね。今思うと良くないとされる食生活を、成長期にやってしまったのが、ずーっと気になっていて。20年近く体重55kg前後で痩せてるし。男としての種の弱さに対しての強迫観念がヘドロみたいにこびりついてるんです。
土門
それは今も拭えてないんですか?
柿次郎
そうですね。さっき話した日雇い労働で「Cランク」って目の前で書かれた話も、そのときに僕があんなに感情的になったのは、その不安を揺さぶられたからかもしれないですね。
 
それでね、『ジモコロ』の取材を続けていて実感したのは、「生命力の強いモノ食ってる人間は血が強い」ってことだったんですよ。僕は今、東京と長野の二拠点生活をしているんですけど、長野の友達は豊かな自然の中で育って、地元の山菜やキノコとかを食べてきた子が多いんですね。同世代の男に聞いても「子供ができないって話はぜんぜん聞かないなぁ」と。それに比べて、東京で僕と同じようにコンビニ飯やジャンクフードばっかり食べている人は、やっぱり不妊で悩んでいる人が多い印象があるんです。もちろん一概には言えませんが。
 
『ジモコロ』で取材しまくった結果、その結論に自分の中でたどりついて、生命力強いものを食べないとあかんなーって実感しているのが今。そのためには、土に近い生活をしていないと無理で、じゃあどうしたらそれができるかって考えたときに、公私混同して自分が友達になりたいなって思う人に取材して、彼らから食べ物をもらうっていうのがいちばん手っ取り早いって思ったんですよね。それを47都道府県に広めれば、どこででも生きていける。
土門
それが『ジモコロ』でやってることなんですね。
柿次郎
そうなんです。 最近「編集って何ですか?」って聞かれる機会が増えてきたんですけど、振り返ってみると僕は0から生み出した言葉がほぼないんですね。自分の中にある想いを言葉にして伝えたい、という感じではない。ただ、「利己を満たすためには利他的に動かないと無理」って思っていて、それを「編集」というもので形にしているだけなんだと思います。
 
そして僕の利己は「血を残すために生命力高く生きること」なんですよね。田舎にいって土に近づきたいっていうのも、生き残り血を残すための本能なんだと思います。
土門
その利己を満たすために「編集」という利他を行っているという。
柿次郎
自分が興味があって取材した人やものを、より多くの人に「こういう世界があるよ」って教えていくことが僕の利他なんだと思います。
 
そういうのを教えてくれるおじさんが、僕の人生にもいてくれたらよかったのになって今でも思うんですよ。本読んだらいいよとか、学校行かなくてもいいからこういうことしたらいいよとか、そういうのを教えてほしかった。僕は「血」だけじゃなく文化的資本にまったく恵まれなかったので、自分のこの短い人生のなかでそれをどれだけ獲得できるか、って思っています。
土門
「そういうのを教えてくれるおじさん」に、今度は柿次郎さん自身がなるんですね。
柿次郎
でも自分がいざそういうおじさんになろうとするなら、自分でリスクとって自分で時間も金も自由に使えるようにならないとだめだなって思って。雇われながら「やってもいいですか?」って許可もらってたらできないんですよね。それで昨年、バーグを辞めて独立して、会社をつくったんです。
それは別に、リーダーになりたいとか、プラカードもって活動したいとかじゃないんですよ。ただ、自分がいいなと思うことを「やってこ!」って言ってやっていきたいなって思ってて。
土門
姿勢を通して伝えていくような。
柿次郎
そうです。
今は長野に村を作るのが夢なんです。ヒッピーカルチャーの強いコミュニティというよりも、なんとなく自然豊かで土に近いところで暮らしたい人が「いいな! 楽しそう!」と住みやすくなるような村。間口は大衆に開かれていて、奥には生きるための思想も必要だとは思います。 僕は閉じるのがいやなんですよ。なるべく開いて新しいことを取り入れていきたい。僕には本当に何もないから、閉じると終わってしまうんですよね。
土門
なるほど、なんか……柿次郎さんに感じていた「怒り」の正体みたいなのがわかったかもしれません。柿次郎さんからは、「生きる」ことへの執着と同時に、「終わり」とか「死」への意識もすごく感じるんですよ。その危機感から生じる強い衝動が、「怒り」として感じられたのかもしれないなって思いました。
柿次郎
そうですね。僕は過去の経験とか環境とか、「死」を近くに感じることが多かったからこそ、「生きる」ことへの執着も強くなったんだと思います。これまでの「なにくそ」のモチベーションや這い上がる気合もここから来ているんだろうな。メメントモリの「死を想え」ですよね。死を想像し、生に執着する。
 
血の強い人を羨ましいって思うときもあるけれど、自分は自分のやり方で生き残って血を残していかねばなと思います。

 

■柿次郎さんの一冊

『メメント・モリ』藤原新也 著 (三五館)

書影

タイトルはヨーロッパ中世期につかわれた宗教用語。世界中の「死」と「生」を切り取った写真と詩が並んでます。人生の転機となった30歳の頃に薦められて読んだんですけど、当時は「ふーん」ぐらい。5年経って人生経験をそこそこ積んでみると、「メメント・モリ(死を想え)」の言葉の重さにズシーンとやられてます。死を意識することで生が輝く。100年時代なんてクソ喰らえ。生まれ持った手札を気合で交換しながら、一年ずつ本気で生きないとジャンプアップできないんだから。結果、死ぬ気でやることを教えてくれた本だと受け止めてます。(柿次郎)

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これまでの連載

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